私は「道」というのは、いつでもそこにあるものではなく、ある瞬間に立ち現れては、すぐに見えなくなってしまう、そんな類のものなのかなと思っている。それはおそらくその人自身の中で、ある種の啓示のようなものとして感得されることでしか、掴み切れないものだ。目に映るものではない。

 

私に出来ることがあるとすれば、その人の内部で潜在的に流れるものを予感しながら、モノ、人、言葉、場所、自然、作品といったアクターを適切に組み合わせ、それらが絡まりながら流体としてその人自身に作用する、その瞬間に至るプロセスに寄り添うこと。共に「道」を探索することだけだ。

 

 


あわ居を営みながら

 

 

はやいもので、あわ居を営みはじめてからもう4年目になる。その間、新型コロナウイルスの影響を多分に受けつつも、だから故に見えてきたことがあり、改善できたことがたくさんあった。様々な出会いがあり、変容があり、多くの学びがあった。私は、このあわ居という場所をはじめて本当に良かったと心から思う。

 

これまで、ホームページの公開こそしていたものの、あわ居を営みながら、自分たちが考えてきたことについては発信することがなかったし、特にどこかに記してきたわけでもない。なぜだろうか。

 

これまでの私は、岐阜県という地方の、その中でもとりわけ奥地にある石徹白集落の中の、一個人が細々とプライベートに営む一つの場所を起点に起こっていること、発露していること、そこから展開していく思考に対して、それをあくまでか個人的なものでしかないのだと思ってきたのだと思う。それは別に卑下しているわけでも、謙遜しているわけでもなく、ただただ「そのようなもの」としてそれらを捉えていた。それに、目の前の他者に何ができるのかを考え、そこに応答していくことだけで、十分すぎるくらいの悦びを感じていた。

 

けれども、ここ最近ある出会いをきっかけにして、自分の中に芽生えてきたひとつの傾向がある。あわ居を営みながら自分たちが考えきたことや、ここでの実践について文章に記し、それらを他者と分かち合ってみたいと考えるようになったのだ。これは自分にとっては驚きではある。けれども、もしかすると心の奥底ではこのようなことを望んでいたのかもしれないなということも同時に思っている。だから、少しずつこれまであわ居を通して考えてきたこと、見えてきた世界について、ここに書いていきたいと思う。

 

そこにどのような意味があるのかはわからない。このあわ居という、自分達でもまるで全貌がつかめない「謎」について記していくことは、私にとっては意味も価値もわからない言葉をあえて他者に晒し続けるということになるのだろう。けれども、そうした言葉を発するところにこそ、案外「社会」というものが展開していくのではないか、新たなあわ居が生成していくのではないか、そんなことを今は思っている。


ことばを育てる

 

 

あわ居で様々な方と接する中で気づかされたのは、個々それぞれが自分自身の「ことば」をそれとして育んでいくことの難しさである。それが何に起因しているのかという問いはあまりに壮大で、私にはわからない。近現代の教育による影響があるだろうし、街に溢れる広告の影響もあるだろう。そもそも今の社会で過不足ない生活を送る上では、「ことば」はそれほど必要とされていないのかもしれない。

 

「今、私は、何を感じているのか」ということがとても実感しづらい社会だし、「今、あなたが、何を感じているのか」ということに対しての無関心があまりに蔓延る社会だと思う。むしろ「今、私は、何を感じているのか」ということに対して盲目にさせておくことで、利益を得ようとする人間がそこかしこにいるのかもしれない。そうした社会では、なかなか個々それぞれの「ことば」は育ちにくい。「ことば」が育っていかないということはおそらく、その人らしい生を送ることへのためらいや躊躇へと繋がっていくのではないかと思う。

 

けれども、自分自身の「ことば」を育て、それを基軸に生を営んでいきたいと思っている人は、潜在的にはとても多いのではないかということを感じている。どこかに設定された基準や、誰かの価値判断ではなく、「自分にはこうとしか思えない」ということを他者に対して表明することは、とても恐い。けれどもそうした過程でしか得られるものがあると思う。それが自分自身への信頼であり、身体への信頼である。

 

「ことば」が育っていくために必要なものは何だろうか。私はそれは「安心感」なのではないかと思う。自分自身で世界を感じ取ること、感じ取った世界について語り合う事、心身が感じ取っている違和の感覚が、なんの留保もなしに受け取られる場所。本来、教育機関というのは、こうした「安心感」を基に形成され営まれていくのが望ましいと思うし、極端なことを言えば、その人自身の中で自己の身体への信頼が形成されたのならば、もうそれだけで十分な教育の成果なのではないかということを思ってしまう。教育学者のボルノウの庇護性という概念にはとても共感する。

 

あわ居では「ことばが生まれる場所」というものを実施していて、体験者インタビューをアーカイブしている。このインタビューをしながら思ったのは、「その人にしか語れないことば」があるということである。そして私はそのかけがえのない、その人にしか語れない「ことば」を聴くのが好きだ。そんな「ことば」を、何より自分自身が聴きたいから、私たちはあわ居をやっているのかもしれない。そして、もしかすれば、その人にしか語れない「ことば」が生まれる時にこそ、その人はその人として、よりその人らしくなっているのかもしれない。

 


アートとしての場づくり

 

人類学者のヴィクター・ターナーは「境界状態(リミナリティ)」という概念を示した。「境界状態(リミナリティ)」は、「これまでの生き方には戻れないけれど、これからの生き方が見えているわけでもない」そんな状況だと言える。曖昧でどっちつかずの、不安定な状態。こうした「境界状態(リミナリティ)」は、子ども、おとな問わず、人生の大事な節目で不可避的に、継続的に訪れてくるもので、逆に言えば、「境界状態(リミナリティ)」は、より高次の在り方に向けた「試練の時」だとも言える。より高次の本質的な生を歩むにあたっての、この上ない「契機」。  

 

「境界状態(リミナリティ)」において必要となるのは「反構造」的な場で、あわ居はこうした「反構造」的な場でありたいと思っている。一般的な社会生活を営む中では他者からの評価、役職、立場、権力、性別などによって個人はラベリングされ、制度などによっても無意識的な抑圧を強いられている。勿論、社会的な日常が円滑に営まれるためには、そうした「構造」は必要不可欠なのだが、しかし「境界状態(リミナリティ)」においては、そうした社会的な「構造」から離脱する必要がある。なぜなら「構造」が反転する「反構造」的な場や関係性の中でしか、感得できないもの、回復できないものが人間にはあるから。巡礼や茶の湯、バックパックを背負っての旅などは「反構造」の最たる例であり、社会的な秩序からはずれた、真に平等で非合理的な関係性、コミュニケーションの中でしか体験できない、生命という秩序への合流が果たされる場というものがこの世界には確かにある。そうした「場」での心身の変容を通じて、私たちは「境界状態(リミナリティ)」を克服し、新たな「姿」への着地、再生へと至るのだと私は思う。

 

「境界状態(リミナリティ)」は自己卑下や鬱屈を伴う非常に厳しい期間ではあるけれど、しかしこうした「からっぽ」の時には、意識下で、「未だ知られていない新たな自分」が胎動しているのだと思う。意識下の「未だ知られていない新たな自分」と出会うために、かつて巡礼者はあてのない旅をしたのだろうし、かつての武士たちは茶席に足しげく通ったのだと私は思う。社会的な秩序からはずれた平等で非合理的なコミュニケーションの中で、意識下に潜在する「未だ知られていない自分」との邂逅が果たされ、新たな「姿」へと生まれ変わる。

 

「未だ知られていない新たな自分」が暴露され、現前するような時間がそもそもいつ、何によって、どんなタイミングでやってくるのかは、それがやってくる前の段階ではだれにもわからない。だから結局はそうした時間が到来するか否かは「偶然」に左右されるところが大きいと思う。しかし、優れた美術作品や文化的な場というのは、そうした「偶然」を確かに誘発させる「場のちから」をもっていると私は思う。「あそこに行けば何かが起きるかもしれない」「これに参加したら何かのきっかけをつかめるかもしれない」という期待にいつでも応えてくれるし、もう少し言えばあそこに行けば確かに何かが起こるという《予知》が出来てしまうようにも思う。だから見方を変えれば、そうした「偶然」が起きるのは「必然」であるとも思えてくる。そうした「偶然の必然」を誘発するメディアがアートだと私は思う。だから、アートは、決して絵や音楽などの狭義の芸術に限らない。「必然の偶然」を引き起こす施設や、場をつくっていくこともまた、ひとつの「アート」だと私は考えている。あわ居はそんな「偶然」を誘発する「場」で有れたらと思っている。


詩としての文字  

 

 

これまで私は「文芸としての詩」のようなものを書き、それを書作品化することで、書の制作を行ってきた。しかし2021年の『ことばの途上』の出版を境として、私の中で「文芸としての詩」を書くことへの興味や制作意欲がなくなった。そうした自分自身の傾向について抵抗するつもりは、今の私にはさらさらない。

 

思い返してみても、私はその制作方法にどことない違和感や不一致感を感じていたのだろうと思う。しかし当時は、その方法での制作を重ねていく以外には、全く以て自分の道を進めていく手段が見いだせていなかった。けれども、その過程で考えてきたことや、気づかされたことは、ここには書ききれない程に多くあって、その時間を通して蓄積してきたこと、得て来たことは、自分にとって何物にも替え難い財産だと思っている。

 

だから、これまでの制作方法への意欲がなくなったといっても、私はこれまでの作品や制作方法を否定する気はさらさらない。これまでとは異なる方法での制作が、これから始まっていくんだなという予感だけをただ感じている。

 

自分がこれから書を制作する際の、新たな方法。それはどのようなものになっていくのだろうか。

 

その糸口となりそうなのは、昨年、私が人類学系の書籍を読み漁っている中で、ふと立ち現れた仮説である。それは、「文字をかく」という行為自体が、そもそも「詩の刻印行為」だったのではないかというものだ。私にとって詩というのは「イメージ」の経験である。自然やモノ、風景、人といったものが固有の表情を持って現れ、言語に先立つ意味を孕んで立ち現れる一回性の出来事。「イメージ」の経験においては、主体と客体(対象)との境は消失し、絡まりあっているのだが、人類は「イメージ」を記憶し、共同体において保存していくために、その絡まり合いの経験を「描く」ことを始めたのではないだろうか。

 

そして「イメージ」を「描く」中で、その行為が洗練され、抽象化され、最も効率的な保存方法として創出されたもの。それが「文字」だったのではないだろうか。文字のはじまりと言われる象形文字というのは、画にも見えるし、文字にも見える。

 

ティムインゴルドは、「記述はいまだに線描である。しかしそれは、描かれるものが表記法の要素を含む特別な線描なのである」とした上で、「記述を言葉による構成ではなく、線を引くプロセスとしてとらえること」を提案している。(インゴルド『生きていること』)

 

原初的なところでの「文字」を書くという行為は、「イメ―ジ」の経験のおける、対象との絡まり合いのプロセスそれ自体を書く=描くところに本質があったのではないか。書かれる=描かれるものは、像であると同時に、記号でもある、そういうところに象形文字の本質があったのではないか。ここから次なる制作を構想していきたい。

 

 


窓と場所

 

 

私にとって、あわ居というのは一つの窓なのかもしれないなということを時々思う。あわ居を営むことやここで暮らすことそれ自体が、決して容易にはつかむことが出来ないこの広大な世界というものに対して、自分なりの窓をつくることになっているのかもしれない。固定された場所に住み、ここで仕事を作り、他者を迎え入れること。それはある側面から見れば、極小的で、限定的な条件の中に、自らの生を留めておくという風にも捉えられるのだろう。

 

けれども、そうした固定的な場所に腰を据えて生きていることで、かえって社会や環境の移ろいが見えることもあるのではないかという気がする。社会や環境と書いたけれど、それはあくまでもプライベートなところで感じ取れる社会や環境に過ぎない。そこにはなんの客観性もないし、一般性もない。けれども、そうした所で感知される社会や環境の都度の移ろいは、いつでも私に問いを投げてくれているような気がする。「あなたの拠って立つ場所は、これからもそこで良いのか」と。

 

そんな問いかけに、私は揺さぶられ、いてもたってもいられなくなって、新たな場所をつくるための旅へと出る。旅とは言っても、自らを省察したり、本を読んだり、人に会いにいったり、少し建物に手を加えたり、新たな試みをはじめたりといったその程度のことだ。けれどもその旅の中で実感される質的な変化は、ここでの生活や生業の有り様に如実に反映される。あわ居という場所はこうして移ろいでいく。

 

固定された場所に住み、ここで仕事を作り、他者を迎え入れることだけ見れば、私たちがここでしていることは永久に変わらないのかもしれない、けれどもあわ居という場所が移ろいで行く中で、今まで知ることがなかった新しい世界に出たよろこびを覚える時がある。こんな世界があったのかとよろこびを覚える。

 

社会や環境はいつでも私たちの意図とは関係なしに、めまぐるしく動いていく。私たちはその中で世界に折り合いをつけながら、その都度場所をつくることでしか、現実を生き続けることが出来ない。私はこのあわ居という窓を通して世界と関わりながら、生かされていきたいと思っている。

 


 

 

今年の9月に、私が大学自体にゼミでお世話になった田渕先生が、ゼミ生5名を連れて、石徹白に来訪された。目的は、石徹白で聞き書きを実施するためで、私たちは、現在石徹白地区の地域おこし協力隊である加藤さんと共に、そのコーディネートをし、また宿泊についてもあわ居で担当をした。

 

私自身、22歳の時に田渕先生に連れられて訪れた島根県の隠岐諸島の海士町において、それはたった3日間の滞在ではあったけれども、人生の価値観がひっくり返るような、そんな得難い体験をさせていただいたことは、今も鮮明に記憶に残っている。もちろん、まったく同じことは起きようもないわけだが、それでもわざわざ東京から石徹白というこの僻地まで足を運んで頂く先生や学生さんたちに対して、最大限の自分達が出来ることをしながら、何かしらの体感や気づきがそれぞれの中に生起することを願いつつ、事前準備や当日のアテンドにあたった。

 

フィールドワークの当日、私は女子学生1名と、田渕先生の3名でグループとなり、Tさんという80代の男性にお話を伺った。前半は、地域の支援センターで実施したこともあり、Tさんとの質問のやりとりがあまりうまくいかず、なかなか聴き取りが難しかったのだが、Tさんのご自宅に場所を映しての後半は、当時の写真を見ながら生き生きとした語りが展開し、またそれにつられて同伴者である私自身も次々に聞いてみたいこと、質問したいことが湧いてきて、とても豊かな時間が流れたように思う。

 

Tさんは10代の後半までを石徹白で暮らした後、ひょんなことがきっかけで、北海道で自衛隊の仕事に就くことになった。当時の石徹白では、多くの家庭で馬を飼っていたのだが、北海道に行った時に見た初めての乳牛に魅了され、「自分もいつか乳牛を育ててみたい」と思ったとのことである。自衛隊が休みの日は、近くの牧場に足を運び、乳を搾り、乳牛の育て方を学んだそうだが、その牧場に小学3,4年生くらいの小児麻痺の子どもがいつもいて、Tさんはその子と遊ぶのがとても楽しみだったと嬉しそうに話してくれた。北海道での自衛隊での仕事を数年で切り上げたTさんは、福井県の大野市に移り、そこで乳牛を育てながら生計を立て、その後ブラジルに移民として入植する。どの話も本当に興味深く、Tさんの方でも写真を見れば話は尽きなかったが、当日のスケジュールもあったため、御礼を言い、キリの良いところでTさんのご自宅を後にした。

 

学生たちはその後、あわ居に戻り、聞き書きで感じたことをまとめたり、話し手の方への御礼の手紙などを書いたりした。私は、夕飯の準備を手伝いながら、その日の聞き書きで得た感慨が何だったかをぼんやりと考えていた。

 

夕食を食べた後、皆でダイアローグをし、それぞれが聞き書きの中で感じたことを共有することになった。Tさんの人生は、偶然に偶然が重なる中で展開されていることがまずは一番印象深かったので、私は、そんなTさんの偶然に彩られた人生の不可思議さについて共有をしようと話し始めたのだが、どういうわけか、すぐにその話をする気は消えてしまい、少し言葉に詰まってしまった。すると、ある場面がふと自分の中に想起された。それはTさんが「その坊が、かわゆうてなぁ(かわいくてなぁ)」と言っている場面だった。

 

北海道の牧場で、小児麻痺の子と遊んでいた時のことを述懐する徹さんは、確かにこの言葉を、あの時何回か口にしていた。けれど、私は話を聴いている時には、そこに特に気をひかれたわけでもなければ、なにか印象深いものを感じたということでもなかった。けれども、なぜかそのダイアローグで自分の番になった時に、Tさんのその言葉が想起されたのである。

 

「その坊が、かわゆうてなぁ(かわいくてなぁ)」。

 

もう少し言えば、その言葉から喚起される、Tさんとその男の子が遊んでいる情景であったり、その時の関わりの密度のようなものが、自分自身を襲っていたのかもしれない。数十年前に起きたはずの彼らの交わり。その交わりという、ひとつ場所から、ひとつの穴から、こそっと誰かに今の自分が覗き込まれた。覗き込んだその誰かは、さっと一瞬私を覗いただけで、またすぐにどこかに行ってしまった。そんな感じがした。

 

今はこうしてその時から時間も経ち、距離をおいてその時のことを眺めることが出来る。あの時に、一体自分に何が起きたのかということについての理解も、あの時よりは少しだけ進んだような気もする。

 

けれども、ダイアローグで私が当初話そうとしていたことを話そうとした途端、あの言葉、あの場面が急に私を襲ってきて、私は動揺した。だから、正直に、ダイアローグの時間では、Tさんの「その坊が、かわゆうてなぁ(かわいくてなぁ)」という言葉を聞いて、「どう生きたら良いのかがわからなくなってしまった」ということを皆に共有した。これだけ言ったところで、周りは「え??」という感じだったと思うが、自分としてはそのようにしか言いようがなかった。

 

後日、このエピソードを友人に話してみても、揃って「え、どういうこと??」と言われてしまうし、自分でもわけがわからないと、そう思う。けれども確かに「その坊が、かわゆうてなぁ」という言葉は、私を襲ったのだ。言葉は何を運ぶのだろうか。言葉とは何だろうか。いやむしろ、「私たちは何を運ぶことを期待されて生かされている者なのだろうか」。

 

私は何かとてつもないものを、Tさんから渡されてしまったのかもしれない。今はまだそれをどのようにすれば良いのかということはわからない、わからないのだけれど、あそこであの言葉を聴き、こそっと穴から見られた私は、もうそれまでの私でいられなくなってしまった。それまでの私ではなくなってしまった。そのことだけは間違いないようだ。

 

私は、もともと東京からせっかく来ていただくのだから、、、と先生や学生に対して、張り切って準備をしていた。でも彼らが訪れてくれたことで、私は先生と学生と共にTさんのお話を伺う機会を得て、結局は、自分自身が「外」へと連れ出されたということになる。「他者」を迎えるということは、結局は自分自身の「他者」を迎えるということなのだろうか。私はそんな「他者」を出会い続けていくために、あわ居という場所をやっているのかもしれない、そんなことを思う。

 


詩をつくる

 

 

あわ居がどんな場所なのかを一言でいう事はとても難しい。けれどもあえてそれをするのであれば、私たちはあわ居を通して「詩」を作っているのではないかということを思う。

 

勿論、ここで言う「詩」というのは宮沢賢治やリルケの書くようないわゆる文芸としてのそれではない。あわ居で作っている「詩」とは、自らの「外=非知」にふれる瞬間のことだという風に私は認識している。自分自身がまだ知らない世界へと連れ出されてしまう契機としての「詩」。それまでの自分自身がいなくなる瞬間であると同時に、新たな世界の始まりが告げられる瞬間でもある「詩」。「詩」はこの世界の様々なところに、様々な形で潜在している。人との出会い、書籍や作品との出会い、風景との溶解、歴史との遭遇・・・。「詩」は私たちに、この世界の果てのなさを教えてくれるように思う。これほどに豊かで、これほどに深淵な世界があるということをまざまざとみせてくれる「詩」。私たちの生をひらき、いつでも道を示してくれる「詩」。

 

正確に言えば、「詩」は人に作れるものではない。それはいつでも私たちに不意に訪れるものであるように思うから。けれども、「詩」が生まれるための場を整え、そこで様々に試行錯誤をしながら、「詩」の訪れを待つことは出来るのではないかと思う。だから、私たちが出来るのは、そうした場を整え、そこで目の前の人と関わりながら、その人にとっての然るべき時の訪れを待つことだけなのだと思う。

 


社会をつくる

 

 

あわ居を営むことの醍醐味はいくつもあるのだが、その中のひとつが、「社会をつくる」という感覚が実感できていることだと思う。社会などと書いてしまうと、国家であるとか、システムであるとか、そうした大きなものをつい想定してしまいそうになるし、それはそれで紛れもなくひとつの社会なのだとは思うが、私がここで述べようとしている社会というのはそうしたものではない。これは人類学者のレヴィ=ストロースによる「真正な社会」と「非真正な社会」という分類とおそらく近しい感覚なのだろうと思う。

 

私があわ居を通して実感している社会は、小規模で、直接的で、生き生きとした実感を伴う他者との相互作用を基盤とする関係性であり、またその集合体のことだ。この「生き生きとした」というところがおそらくポイントで、これは決して顔見知りであるとか、対面で話をしているとか、それのみで実感できるものではないような気がしている。人間の内発性を喚起し、促進するような「運動体」が、お客さんとの「あいだ」で感じ取れること。互いが「外=非知」へと連れ出されてしまうこと、そんな現象が起きたときに、私は「生き生きとした」ものをそこに感じる。そこで「分有」されているものにこそ、人と人の真の意味での連帯や紐帯があるのではないかと感じている。もちろん、こうした実感がいつでも得られているということではないのだが、少なくともこの4年間の運営の中で、こうした実感を得たお客さんとの関係性があった。こうした関係性を基盤に営まれる「経済」が成立するとすれば、現代をとりまく閉塞感に対して、ひとつの可能性になるのではないかと思っている。

 

さて、私にとって「生き生きとした」相互作用の何が面白いのだろうか。おそらくそれは、「わたしの顔」が暴露される瞬間がそこに含まれていることが関係しているように思う。つまり、そのお客さんと関わることがなければ、決して見えてこなかった「わたしの顔」が立ち現れてしまう瞬間が、時折確かにある。そうした瞬間の現前は、わたしに新たな自覚を促してくれる。わたしが、この一生において何を引き受け、どのように他者と関わっていけばよいのか、わたしには何が出来るのか、わたしが「誰」であるのか、その新たな地平を私に垣間見せてくれる。そしてそれは、わたし自身や、生に対してのさらなる「謎」を生み、その「謎」が何であるのかを知るための、新たな他者との出会いへと私自身を駆動してくれる。同様のことがお客さんの中でも起きているとしたら、この上ないことだと思う。

 

こうしたコミュニケーションは、現代の社会で展開されるそれからみれば、あまりに過剰なものなのだと思う。過剰であるというのは、不確かであるということだ。混沌に身を置くということだ。どうなるのかわからない、どのように関われば良いのかがわからない状態で、それでもなお他者に触れようとするときに、そこにおそらく過剰なものが立ち現れてくる。だから、過剰さというのは、無防備さとも関連してくるような気がする。

 

コミュニケーションとは、そもそもあらかじめ意図をもってなされることなのだろうか。あらかじめ意図することや伝えたいことが主体にあり、それを過不足ない形で客体がそのまま受け取れば、それがコミュニケーションなのだろうか。私にはどうしてもそのように思えない。目の前の他者と、不確かさを抱えた中で、その人に自分は何が出来るのかはわからない、どのように関われば良いのかわからない、失礼をするかもわからない、拒まれるかもわからない、けれども思い切って語り掛けてみる。ことばを投げかけてみる。もしその先に、他者の身体から反響してくるものがあるとすれば、そこに生じているものこそが「ことば」であり、「意図」なのだと思う。

 

おそらく、このようなコミュニケーションは「共同体」的なものでは決してない。「共同体」とは、何かしら具体化されたアイコンを共有したり、ある同質的な傾向を基盤として営まれる関係性のことだ。私があわ居で、「生き生きとした」ものを実感できている時は、確かに私たちとお客さんとのあいだで、「運動体」を分かち合っているような気もするのだが、おそらくそれは錯覚なのだと思う。私たちは、同一の運動体を共有しているわけではなく、個々それぞれが自らの生命に押し流されているという事態における「類似」を分かち合っているだけなのかもしれない。けれども、そうした事態を分かち合うことは、個々それぞれが、たったひとりのかけがえのない自分として生成し、発展することを強く後押ししてくれるのだと私は思う。それこそが私たちが真に包摂される瞬間なのだと思う。個が個として生成するプラットフォームとしての「社会」。そうしたものを私はあわ居で作っていきたいと思っているし、そんな「社会」がそこかしこに出現する未来を見たいと思っている。

 


テゼ共同体から

 

2020年の4月くらいに自分自身の頭を占拠していたのは、今日における「聖地」とは一体なんだろうということだった。かつてそこが聖地として崇められていたとしても、建築物なりモニュメントが客体的にあるだけでは、そこはもはや聖地たりえないのではないかという、そんな問題意識があったのだと思う。そんなことを思案する中で出会ったのがフランスの「テゼ共同体」についての論考だった。テゼはキリスト教の教派を越えた修道院であり、昨今は主に夏季にツーリストがテゼを訪れ数週間ほど滞在するというスタイルが定着されつつある。

 

テゼ共同体についての論考を読みながら、そこでの滞在では「自らの手で、そこを聖地化する」ということを重要視しているように私には感じられた。客体として「テゼ共同体」があり、そこに出向いたり、そこで数日をそこで過ごすだけでは、そこは「聖地」にはなりえない。だからパッケージツアーの中にテゼ共同体への訪問が組み込まれ、ツーリストが何の気なしにそこを訪れても「何もないではないか」ということになる。そこを「聖地」にできるか否かは、そこを訪れるツーリスト ひとりひとりの能動性に依拠しているということが言えるのだと思う。

 

テゼにおいてとりわけ重要視されているのは「横の交流」である。その時そこに居合わせたツーリストの間で偶発的に展開される相互作用、合唱、ディスカッション、調理、掃除といった共同作業を通じて「超越的な体験」へと導かれていく。超越的と書くと少し突拍子もないが、要はそこに居合わせた人々と偶発的な応答をしながら、日常では得難い深度のあるコミュニケーションを展開していくと考えればわかりやすい。そのコミュニケートの深さが、「外=非知」に触れるぐらいにまで高められるということなのだと思う。だから、テゼに足を運ぶツーリストたちは、「テゼ」という「メディア」を用いて、その都度偶然居合わせた人々と、「聖地」=「場所」を作り出しているのだという風に私には思われた。

 

こうした様相は、例えばスペインのサンティアゴ巡礼においても見られ、現代においては「巡礼」や「巡礼路」はあくまで「素材」であり、その「素材」を媒介として、ツーリストはそこに自分なりの「意味」を見出している(*1)。こうした有り様については勿論様々な批判や議論があるのは事実だが、岡本亮輔氏は以下のように記している。

 

私は、宗教は「衰退」しているのではなく、社会の変化に合わせて「形を変えている」と考えています。(*2)

 

つまり、従来の制度的な「宗教」ではないところで、「宗教的なもの」が拡散している、ないしは「宗教的」であること自体が多様化しているというのが、岡本氏の主張するところなのだと思う。宗教が世俗化したと言われる今日にあっても、人間の生には「超越的なもの」「至高的なもの」が不可欠であると私は思う。テゼ共同体や現在のサンティアゴ巡礼のように、「超越的な体験」を自らの手で作り出せる「メディア」の必要性をひしひしと感じている。あわ居もそのような場所になっていきたいと思っている。

 

テゼ共同体については、岡本亮輔氏による論文『聖地の零度 : フランス・テゼ共同体の事例を中心に』が詳しいです。本文を記載するにあたっても、こちらの論文を参照しています。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/religionandsociety/15/0/15_KJ00006015201/_article/-char/ja/

 

*1  https://www.circam.jp/columns/detail/id=2902

*2 同上