はじまり(2020/10/8)

 

 

自分が話しているときにことばが上滑りしているなと感じることがある。何かを聞かれて答えても、会話をつなごうと自分から話題を振っても、そこから広がる言葉がどこにも響いていない気がしてしまい、パタッと、話すのをやめてしまう。これから自分が話そうとしていることのすべてを、まるごと全部、自分がわかってしまっているからなのだと思う。すでに知ってしまっている世界を、繰り返すことに、自分が飽き飽きしているからなのだと思う。

 

目の前で、わたしに耳を傾けている人がいる。その人は何かを聴こうとしている。その人が何かを聴こうとしているから、わたしは言葉を発することをやめる。からだまるごとわたしと向き合っているその人に、言葉を発することがあまりに軽々しく思えてしまう。

 

そこからしか広がっていかないものがある。

 

ことばのない世界に一緒に身を浸しているのはどことなく照れ臭いような気がする。窓の外に広がる空に眼をやってその場に一緒にいるだけ。照れくささを紛らわそうと机に置かれたコーヒーカップを手に取るが、なんどもそれを繰り返しているから、当然のことだがカップには何も残っていない。飲むふりはさっきもした、だから仕方なくまた同じ方向に眼をやってその場に一緒にいるのに戻る。照れ臭いのは未だに変わらない

 

そんな状態に身を浸していると、なにかがはじまっているのに気づく。いつはじまったとか、どうはじまったのかはあまりわからない。わたしが話題を投げかけたわけではないと思う。なにか質問をされた覚えもしない。そういうことはあまり覚えていない。

けれどもたしかにはじまってしまっている。そしてさっきまでここにいた、わたしやその人がもうどこにもいなくなっていることに気づく。 

 

ことばが流れている


西田幾多郎の書(2020/9/4)

 

 

先日、家族で実家に行った際に、リビングの机の上に西田幾多郎の書作品集が置いてあった。5年ほど前に私は金沢の西田幾多郎記念館を訪れて、初めて氏の真筆を目にしたわけだが、その時の衝撃は今も忘れられない。西田幾多郎記念館を訪れる前日には新潟で良寛と会津八一の書を、そのまたさらに前日には高村光太郎の書に触れるという順序を辿ってきた中で、むろん、良寛にせよ、会津八一にせよ、高村光太郎にせよ、自らが敬慕する人物の残した書に接するというのは、なにものにも代えがたい体験であったし、自らの創作を試みていく上でも、多分に感得されるところがあった。しかし西田の書を前にした時の感動は、おそらく私が今までに見て来た書においての体験の中で、最上位に位置するものであったように思う。

 

圧巻だった。

 

一応は、芸術を志している人間として、私は「宇宙」などという語句を安易に用いたくはない。しかし、そうした自分の信条を差し置いてもなお、彼の書の線は「宇宙の展開力」そのものであると、そのようにしか言わせぬ、説得力に満ちていた。

 

そんな背景の中、久々に、おそらく5年ぶりに、あくまでも写真を通じてではあるのだが、実家に帰った折に、西田の書を見る機会に恵まれたわけである。私は先に、彼の線について「宇宙の展開力」などということを、恥ずかしげもなく記しているわけだから、彼の残した線の、強靭、鋭敏については、ここに改めて確認する必要がない。荒廃した大地が広がる野に立って、ただ一筋の光を手繰り寄せていく生き様。西田の孤高の精神を、そのまま形にしたかのような、唯一無二の線である。

 

しかし、じっと眺めていると、その線の展開力の強靭さ、鋭敏の背後に、「停止」「反芻」「動揺」「頓挫」「難航」といった語句が想起されるから不思議だ。しかし、「線」というのは、「生」というのは、そもそも、そういうものなのかもしれないなということを、私は改めて思ったのだ。

 

現代に生きる我々は、外部環境を整えることで「効率」を担保しようとする、そこに「生きやすさ」があるような錯覚をしてしまう。その「生きやすさ」が「流れ」であるかのように思ってしまう。しかし、西田の書を眺めていて思うのは、やはり本当の意味での「生きやすさ」を目指すのであれば、それまでの自分では太刀打ちできない出来事との衝突、挫折、喪失、悲しみ、うろたえ、自らの立脚点が揺さぶられる「事件」や「違和」。そうしたものとの遭遇を避けては通れないのではないかというものであった。

 

そして、都度、自らを作り変えていく、新たな世界を制作していく《態度》が必要なのではなかろうということであった。「わたしが否定されること」の繰り返しからしか、「線」などというものは立ち上がってこないのだろう。西田が刻む線の運動の背後には、その運動方向とは真逆の運動が無数に刻まれている。相克と葛藤故に、線は立ちあがり、練り上げられていく。

 

だから、思うのは、西田というのは、誰よりも悲哀に直面した人間だったのだろうということだ。西田の線の展開力の背後には、あらゆる細部に目を背けることのできない「生への誠実」がおそらくはある。あらゆる物事や、自らの内部の不純を冷徹に観察する鋭敏さ、繊細さ。悲哀や邪悪さを引き受けてなお、この生を引き受ける、肯定できるように、もがき、そして苦しむ。「生」という難題に対し、最後まで、全存在を以て格闘したが故の、あの圧倒的な線である、人間存在の極北の証左である。

 

また時期が来たら改めて、彼の残した書に会いに、金沢にいけたらと思う。

 


自治とホスピタリティ(2020/7/31)

 

 

自分で自分をもてなすということ、それこそが自律、自治なのです。(栗原彬「自治:自分のなかの他者を動かす」)

 

 

石徹白での宿泊を伴う施設『あわ居』の運営をはじめてから、よく耳にするようになった語句のひとつに「ホスピタリティ」がある。「気遣い」とか「おもてなし」といった語句からはおよそ無縁の、たいそうふてぶてしき人生を歩んできた自分が、

まさかここにきて対人的な場における成果の極北と目される、「ホスピタリティ」について思案しようなどとは夢にも思わなかった。一説によれば、「サービス」の語源は、ラテン語の「servus」=奴隷であるとされ、他方、ホスピタリティは、ラテン語「hospes=ホスピス」が語源であり、「客人の保護者」という意味合いから派生した語句であるようだ。

 

いつの頃だったか、わたしは現代の宿泊業をはじめとする「サービス業」に関して、「ほとんどが風俗業化」しているなどと、会う人会う人に、血相を変えて吹聴していたが、その背景には、宿泊業にせよ、飲食業にせよ、今日において「サービス業」と呼ばれている業種の多くの根源には、現代とは異なる動機付けや、人への効用があったのではないかという明確な理由を欠いた、個人的な希望的観測が含まれていた。なんといっても、「宿」の起源は、西洋では「修道院」とされているのである。

 

現在、コロナウイルスに関連しての動乱の中で、様々なサービス業が、その有り様の見直しを迫られたり、淘汰を余儀なくされている。高度に効率化された資本主義社会において、「消費」の場所/対象としてのニーズにこたえることで、運営を成立させてきた「サービス業」は、ここにきて改めて、その存在理由を問い直されているのではないかと感じている。いや、「サービス業」に限った話ではない、「教育」だって、「美術」だって、「医療」だって、もはや「サービス業」ぎりぎりのところにまできている、

いや、もしかすればあらゆることが「サービス業」になっているのかもしれない、「他者」を欠いた生活の一般化は、あらゆる領域、あらゆる分野に同様の課題をつきつけているように思える。

 

そんなことをぐるぐると思案しているうちに、かつて読んだ書籍の中で、多分にひっかかりを覚えながら、今一つ咀嚼しきれていなかった言葉があったことを想い出す。それが冒頭に引いた、政治社会学者の栗原彬氏による一文である。栗原氏は、社会学者の石川准氏による「ソムリエ論」を引用しながら、「自律/自治」の何たるかに言及しているのだが、そこで記されている「ソムリエ」の姿に、私は原初的な飲食業や宿泊業などにおける「ホスピタリティ」の薫りを嗅ぎ付けるのである。

 

何処か、鬱屈としたものを抱えてソムリエのところにやってきた客は、自分の中の他者を、自分でもてなすのです。あくまでも客自身が自分の中の他者を動かし、自分をもてなす。このもてなす行為というのはいろいろありえますが、ソムリエはそれを支えることができるだけなのです。この構図はなかなか意味深いですね。ここでのもてなす行為は、鬱屈したものを抱えて行き場のない難民として自分がやっているのです。(中略)ソムリエが自分自身だったらこれはすごく苦しい。ソムリエはあくまでも、直接手助けは出来ず、自分が自分の中の他者を動かす、もてなす、歓待することをサポートするのです。(同掲書)

 

 

この文章を引きながら、5年程前に名古屋駅の大きな宣伝広告に、某百貨店でのセールのキャッチコピーが記載されていたのを想い出す。「夏の憂さ晴らし」と書かれていたように記憶する。不安や鬱屈を、「取り除いて<あげる>こと=取り除いたと見せかけること」に「仕えるserve」のが、「サービス」だろうか。不安や鬱屈を、「《異なる有り様=他者》へと昇華させる姿を見守る」のが、「ホスピタリティ」だろうか。であるとすれば、「サービス」は<幻想>を、「ホスピタリティ」は<現実>を提示するようにも思えて来る。

 

こんな風に性急に一般化することは避けなければならない。しかしこうした暴力的で、恣意的な、仮設から、思考が動き出すことも、案外少なくはないように思うのである。そして、私は、本来の「経済」が、またこれからの「経済」が、栗原氏のいうところの《ソムリエ》による「ホスピタリティ」を基軸に展開される「関係性」、ひいては《存在の贈与》にあるのだと、信じて疑わない者である。

 

 


関係と仕事(2020/7/16)

 

 

畑仕事は愉しみだねという表現をすることはあるが、畑仕事が楽しいということではなく、畑仕事をしているとそのなかか楽しみがわきでてくるということ。そのわきでてくる愉しみとは、畑仕事とともに展開する関係がつくりだす(「時間についての十二章」/内山節)

 

 

コロナの騒ぎが大きくなってからのここ4ヶ月ほどの間に、私はひたすら家の改修を進めた。二階の子ども部屋、寝室、リビング、モロッコ 雑貨の在庫部屋。宿として使っている1階部分については、昨年の段階で、一応は改修を終えたつもりだったのだが、もっとも力を入れるべきはずの客室に違和感を覚えはじめてしまい、結局、縁側や外壁と共に、それなりの時間をかけて再改修を行った。

 

宿を開く前の段階での改修作業は、苦痛この上ないものだったので、いくらその時よりも時間的な猶予があるとは言え、今回の大掛かりな改修に際して、やや億劫になっていたのはいなめない。けれども、緊急事態宣言下、お客さんは来るはずもない。渋々、改修を進めることにした。

 

しかし、である。最初に手をつけた2階の子ども部屋が割合うまくいき、その完成と共に、子どもたちはその部屋で時間を過ごすことが増えた。近所の友達を呼んできてはリカちゃん人形で遊び、家族ごっこをしたり、トランプをしたり。トランポリンで跳ね上がったり。床にはカビが生え、カメムシの大量の死骸と、使いかけの建材が散乱していた時には、決して入ることのなかった部屋に、子どもたちが自然と入るようになり、かけがえのない時間を過ごしている。わたしが白ペンキで塗ったタンスから、毎日の着替えを自ら選び、取り出すようにもなった。

 

書いてしまえばただこれだけのことなのだけれど、ただそれだけのことに、私はこれまでにない喜びを覚えたのだ。これは、例えば、食事を作る時についてもそうで、コロナウイルスに関連しての自粛期間、わたしはかなりの頻度で、家族の食事を用意したのだが、ベーグルを作っても、カレーを作っても、餃子をつくっても、子どもと妻は、よほど味が酷くない限りは、幸せそうにその食事を頬張り、またその食事を囲んでの会話にも弾みがでる。

 

なるほど、仕事というのは、こういうことを以て、面白いというのだということを、わたしはおそらく初めて知った。30過ぎにもなって、そんなことにすら気付かなかったのかと言われれば、あまりに遠回りな歩みをしてきたようにも思えてしまうのだけれども。

 

いや、もしかしたら、去年の宿にオープン以降、ここを訪れてくださるお客さんの反応に、わずかではあれ手応えを感じていたので、意識せずとも、自分が手を加えることで、確かに人への働きかけが変わるのだという感触はその時から蓄積されていたのかもしれない。こうしたことが明確に整理出来てから、改修はとても捗っていった。

 

一本のビスを打つこと。一手一手漆喰を塗り進めていくこと。建材を取り寄せること。養生をすること。ゴミを処理場へ持っていくこと。

そのひとつひとつが、家族なり、お客さんなりが、ここで過ごす時間に、確かに関係を持っているのだということが、ありありと実感された。

 

勿論その過程においては、苦しい部分はあれど、楽しいなと思うことの方が増えたように思う。そして、少し前に読んだ本にもそんなことが書かれていたような気がするなと、書棚を漁り、冒頭に引いたまでである。

 


文化的な場とは(2020/7/15)

 

 

文化的な場所とは何かということを考えている。

 

はじめに暫定的な結論を述べてしまえば、おそらく文化を備えた場所というのは、店であれ、施設であれ、地域であれ、人の潜在的な知であったり、潜在的な他者を顕在化させる作用、もう少し言えば「時間」を生み出すのではないかと思う。

 

フランスのテゼ共同体においては、とりわけ夏季に若い世代を中心としたツーリストが多数訪れ、1週間ほど滞在をする。そこではもちろん祈りも、共同料理も、掃除も、ディスカッションも、ツーリスト同士の交流も、各種のアクティビティも出来る。ツーリストたちもそのことはおそらく事前に知ってはいる。しかし誤解を恐れずに言えば、ツーリスト達は何か明確な目的があって、そこに出向くわけではないように私には思える。なぜかはわからないけれども、そこに行きたくなって、行ってみて、ないしは行って、帰ってきてから、そこに行こうと思った理由が確認される、そうした事後的な部分で、内部に感得されるところがあるのではないかと思う。

 

それは言うまでもなく、多分に偶然性に委ねられた、フラジャイルな場所の在り方だと言える。近代の多くの施設や都市は、主宰ないしは設計側の意図が大変に強固であり、その緻密さ、綿密な計画において構築されたプログラムの中で、私たちはある種の戸惑いを覚えてしまう。他方、テゼ共同体や、文化的な薫りを備えた場所、地域においては、ある程度の冗長性というのか、だらしなさと言ったら良いのか、

その場を主宰する側、形作っている側に、ある程度の方向性や意志はあれど、そこがどのような場所なのか、そこに行けば何を得ることができるのかといったところに対して、明確に宣言しすぎないところがあるのではないかと思う。というのか、おそらくその場所の主宰側も、作り手側も、そこがどういう場所で、何を特徴で、そこで何が得られるのかというところについて、十分に理解できていない部分があるのではないかと思う。

 

にも関わらず、そこに行けば何かが起こる、何かを感得出来る、未だ不在の「わたし」を暴くことが出来る、そうした「予知」が確かに出来てしまう、そしていつでも応えてくれる、そういう「薫り」を発しているのではないかと私は思っている。

 

ある一冊の本が、それを読む者それぞれに、多様な解釈を許す余地を持っていること。その特異を成立させている唯一の条件は、「その書物がことばであるからだ」とわたしはここではっきりと明記したい。「存在」が刻印されていること。

 

人類学者のインゴルドのラインズにあるように、近代に生きる私たちはある書物を前にして、それをスクリーンの如く外から眺めることに、あまりに飼い慣らされてしまった。客体として書物があり、それをスクリーンの如く外から眺めているのだとしたら、確かにそこに書かれている文字は、誰にとっても同様で、一律で、一切の歪みを有していないということになろう。

 

しかしかつての写本文化や、音読文化が示すように、本来、本を読むこととは、その文字群の中に身体ごと飛び込み、その迷宮から、自らの「ことば」を取り出してくることではなかっただろうか。一見すれば同様に羅列された文字群の中に、人は、その人独自の、その人固有の解釈をすることが出来る。自分の内部に流れる「ことば」を、そして「現在」を浮上させることが出来る。誰かの生、誰かの世界において形成された文章は、それを読む者の生、それを読む者の世界を顕現させる。誰かの「ことば」において発せられた文章は、誰かに「ことば」を想起させ、誰かの「ことば」を押し進める作用を発現させることができる。

 

話を戻せば、先に述べた文化的な場が持つ「薫り」というのは、おそらく「ことば」のことだと見て良いのだろう。かつて西田幾多郎は、文化は一枚の岩から出てくるものでありたいといった旨を記載していたように記憶しているが、この一枚の岩というのもまた、「ことば」なのだろうと、そういうことを私は思う。そして、「ことば」において、形成された場所の中で、私たちは新たな有り様や可能性を目撃し、他者へと生まれ変わることができる。

 

「ことばである場所」。そうした場所を作っていきたいと強く思う。

 

 


ことば(2019/6/5) 

 

 

 

 ことばというのは、新しい世界との出会いを果たしたときに生まれるのだと思う。その心の喜びが、記述へとつながるのであって、自閉化した生活において、文字記号を配列し構造しても、仕方がない。ことばが書けるか否かは、世界に参加していることに徹底して依拠する。

 

意志によっては、人間の住む世界は更新しえない。意志というものは、いつでも既存の言語の枠組みを超えることはできないから。どれだけ意志によって、身体に指令を下したところで、そこから見える世界は、世界から読み取れるものは、もうすでに名付けを終えた、生気のない記号ばかり。もしも人間の住む世界が更新される機会があるとすれば、それは「埋没」や「溶解」の次元にあるのは自明であり、おそらくその中で、意志に可能なことといえば、こうした「埋没」や「溶解」の発生までの、「自我の抵抗」に対して、徹底して「否」をつきつけて、眼の前の行為を、相互作用へと、運動へと高めていく、その過程における、心の揺れや、甘さを、マネジメントをすることなのかなと思う。

 

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南に窓を

 

南に窓を切りませう

畑が少し

鍬で掘り

手鍬で草を取りませう。

 

雲の誘ひには乗りますまい

鳥のこゑは聴き法楽です

唐もろこしが熟れたら

食べにお出でなさい。

 

なぜ生きてるかつて、

さあね―。

 

(『朝鮮詩集』より、「南に窓を」金尚鎔)

 

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この詩に描かれてるのは、人生には『意味』というものが、まったく必要でないという、そうした次元を目撃し、生活において体現している、人間存在の「姿」である。私を含めた近現代の人間の多くは、こうした「無意味による充足」が日常に張り巡らされた生活が、これまでも、昨年も、昨日も、今日も、明日も、来年も、これからも、繰り返されていくことに明らかな羨望を感じざるをえない。こうした観点において、 phaさんの『持たない幸福論』は、大変におもしろかった。というのも、phaさんが大きく影響を受けたという真木悠介の著書『気流の鳴る音』は、私自身にとっても世界の「見え」を一変させられた大切な書籍であったし、そこで描かれたような「意味への疎外」に陥らない人生を立脚していきたいというのは、常日頃から私自身の問題意識の中に大きくある。そう見た場合、彼が日常において実践している生活は、その成立様態のひとつとして、十二分に価値を有しているように私には感じられたのである。ではphaさんが実践されているような生活を自分がしたいかというと、それはまた別の話なのだなぁということも、ここ数日で分かってきた。

 

 。そうした中、9月の個展に向けた制作を私はコツコツと進めているわけだが、今日の制作においては、カチッとフェーズが切り替わったことが実感される、そんな瞬間があったように思う。 ある『運動体』の中に、私自身が巻き込まれたという強い感触が確かにあった。制作は、基本的には「面倒くさい」ものだし、できればしたくないものだと自分自身は思っている。やらないでいいのならば、自分はやりたくないとはっきりここに断言できる。基本的にはうまくいかないし、あんな混沌とした、どこに到着点があるかもわからない状態は、出来れば避けて通りたい。

 

でも、やらないでいる苦しさがどんどん膨らんできて、(それはつまり今の私が属している世界に自分自身が飽き飽きしているということ)。やる苦しさに耐える方がましだ思ったときに、その時に、ようやく重い腰を上げるのが、作家の通常なのではないかと思っている。もちろん、今も作品は出来上がっていないのだけれど、先に述べた通りの、ある『運動体』の中に、私自身が巻き込まれたという強い感触を得た後では、どうも制作に対して、「しんどい」とか「面倒くさい」とか、そういう気持ちは不思議とわいてこないのだ。その前後での、自分自身の制作への態度のあまりの違いに、自分自身も驚いている。

 

「世界」という「運動体」の中に「参画」するか否かは、我々にいつでも委ねられているし、冒頭の詩に描かれた「境涯」の実感の是非に際しては、その選択が決定的な要因となる。行為や生が苦になるのは、「世界」に入らないでいることが根本要因なのであって、行為や生に苦が内在しているわけではない。そこに応じる肥大化した私自身に、それを苦としてしまうものが含まれているだけだ。

 

制作は、私自身が生まれ変わることが何よりだと思う。その実感が確かに得られたものを、発表にできるように、準備を進めていきたい。

 


地図

 

 

 

本来の地図やテキストというのは、誰かによって形作られ、その人の生において実感された、身体によって確認された世界、解釈、足跡、歩んだ道である。人間は<現世界>というべき、客体物としての世界に住むことはできない。身体を通じ、関り、その人間の独自の解釈においてのみ成立する世界にしか住むことはできない。そして、その世界に住むためには、誰かの残した地図やテキストといった<世界>の痕跡に、自らの<運び>を見出していく必要がある。そういう風にしてしか、つまりは、誰かの残した【軌跡】と絡まり合うことでしか、自らの世界というのは、実感されえないのではないか。

自分の世界の増幅、運ばれには、<他者の残した世界>、すでに他者がその身体に置いて把握し、解釈した<世界>に、自らの新たな<世界>を見出すということが、そして、その世界に内在する「いのち」を、引っ張り、伸ばし、引き継いでいくということが必要なのではないか。これをもう少し解釈すれば、<運び>の契機となるもの、その機会が、<アート>だということになる。何が<運び>となるか、どの【いのち】や<世界>を、その人は引き継いでいくかは、個々人によって異なる。
従って、客体としての<アート>は存在しない。個々にとって、<運び>となる、そういう場所、もの、記述物があるだけ。その意味で、アートというのは本来は徹底して主観に依拠するものだと思う。<その人にとってアートに成る>、そういうものしかない。もう少し拡大すれば、ある個人の人生や記述物も、誰かの生命にとっての【運び】となれば良いのだということ。
個人の生命活動、創造活動が真に独自的である所以は、個人の生命が接続する個々の記述物(<世界>の痕跡)が、誰一人として、同じような組み合わせを見せないからである。つまり、その人間の<生命>を引き延ばし、道を紡いでいくために関わってきたそれぞれの他者の記述物が、まったく意図せぬ形で、それぞれ結びつき、その個人のいのちを運び、その人独自の<記述>の形態を形づくっていく。そのコンビネーション、そしてその連結における全く予期しなかった結びつき、その結果編み出された独自の「記述」の形式。その「形式」によって記述されたものに、おそらく<生命>は宿る。
なぜなら、その「記述」の形式が生まれ出たその出自にはまぎれもなく<生命>の通過が確認されるから。その人自身、その人独自の<人生>、その人と世界との関わりにおいてしか、<生命>などありはしない。そうした意味ではその人間にとっての独自の「記述」を編み出していく、見出していくということが、<人生>なのだといえるのかもしれない。それはイコールで、生命を生きるということと同様である。
創造というのは、こうした意味で、<連結>や<コンビネーション>であるといえるのだが、重要なことは、その連結やコンビネーションを統制し、結び付けているものが<生命>であることだと思う。テキストというのは、それ自体において、何かを意味し、指示し、明示しているものではない、それはいつでも<誰かに読まれることを望んでいるもの>なのである。
つまり静止や完結など全くしていない。それは<世界によって書かれた言葉>でありながら、<世界が書かれた言葉>であるのだ。<世界が書かれた言葉>を読むものは、その言葉を通じて自らの<世界>を見出していく。
私という存在は、誰かが世界に残した痕跡・記憶を、ある意味では<内面化>して、それをあたかも自分の延長にあるものとして、自分の<物語>の一部として、自分の<一部>として、身体の<延長>にあるものとして、引き継いで、そうして生命活動を継続させて生きていく存在なのだろう。だから、<わたし>というのは、この身体、それ自体のことではない。この身体の中を流れる生命、その生命がその都度の<現出=運び>において必要とするどこかの・だれかの・いつかの<世界・痕跡>との関わり合い、そしてその関わりの総体をして、<わたし>というのだろう。

制作(2019/5/14)
 
9月の個展に向けて、制作を開始した。3年前の制作態度と比べると、随分と、悠長になったものだなと思う。以前は、作品を「しぼりだす」というところがあった。この3年間の間のDIYで、そういうところが随分となくなった。
1日にできることは限られているし、焦って、イライラしたところで、作業が短縮するわけでない。制作における主体はあくまでも、「他者」なのであって、その「他者」がうまく現出されないのは、その交通路である、「わたし」が、未だ不徹底である故。
しかし、不徹底である「わたし」をしかりつけ、痛めつけても仕方なし。重要なことは、とにかく手を動かして、形にしていくこと。形にすると、違和感を感じられる。
駄作の中から、ふと着想が得られる、違和感を払拭する方向へと向かっていける。
制作というのは、ほとんどが「過程」なのだから、「完成」ばかり見据えて、「出てこない」ことにいらつくよりも、
いろいろやってみて、失敗して、違和感を感じて、直して、試して、の繰り返し。「わたし」が作品をつくるわけでない。仲良く付き合うことにする。

夢と現(2019/4/25)

 

 

「夢」という表記を見ると、少し身構えてしまう。「夢を持とう」とか「夢を実現させよう」という言葉が、至る所にはびこる現代。その際に語られる「夢」は、「将来はお金持ちになりたい」とか「〇〇のようになりたい」といった、既に「想定」され、「言語」に置き換えることができてしまうもの、どこかで価値づけられたもの、外から植え付けられた欲望。

 

その実現を至上の命題とすれば、人生は「夢」という目的地に向けた直線型の道路になってしまう。「身体」を殺し、「言語」に疎外される人生。回り道のない牢獄。枯渇していく生命。だから私は「夢」という言葉に少なからずの嫌悪感というのか、決して好ましくはないイメージを抱いてしまうし、間違っても自分のこどもには『大きな夢を持とう、そしてそれを実現しよう』などと伝えたいとは思わない。

 

しかし、と思う。

おそらく、もう少し前の時代までは、「夢」というのは、今とは違ったものとして想定されていたのではなかったのではなかろうか、洋画家の坂本繁二郎の画集をぱらぱらと見ながら、そんなことを今日思った。と、いうのも、坂本繁二郎の絵は、「夢」の中で描かれているように私には思えるからだ。「夢」の中と書いたが、おとぎ話や、空想の世界と言っているわけではない、

まして直線型の道路の最中であるはずなどない、「夢」の中で描かれた絵の中に、まぎれもない彼の「現実」が刻まれているのだ。

 

「夢」と「現実」が同居する「場所」を、忘れずに生きていきたいと、強く思う。

 


虚(2019/4/24)
偶然、熊谷守一の水墨画を見る機会を得る。
10点ほど。どれも良い。
とりわけ青墨で書かれた蛙のそれに目を奪われる。
素晴らしい線。
にょろりとしている。
線が活きているとはこういうものを指していうのだ。
私もこういう線をいつか引きたい。
さらにじっと見る。
じーっと。
じーっと見つめる。
不思議な感覚を覚える。
この線は紙の上にはない。
たしかに線は紙という「モノ」の上に書かれている、
そのことは間違いない。
しかし何度見ようとも、
この線は、紙の上にはないとしか言えないのだ。
では線はどこにあるのか。
観念的で野暮な言葉を連ねることはしたくない。
しかし確かにそういうものはあるのだ。そういう次元がある。
熊谷の線はいつでも静かにそのことを「実感」させてくれる。

ズントーの文章(2018/11/28)
 
ピーターズントーの「建築を考える」を読む。ズントーの文章の根底にあるものは明確だ、「熱情」であると私は思う。彼の見ている「世界」、驚き、心の震え、困惑、疑念。それらを、読者の側にまで伝染させ、そうして「分かち合い」たいと渇望していることがありありと伝わってくる。彼の文章に触れていると、どこか、ズントーの身体に「移って」いくような、そうした感覚に襲われるのだ。
ズントーの文章は、「即物的」だ。目にした風景、物のてざわり、耳に入る音、嗅いだ匀い。それらに対して、ズントーは詮索しない。「ありのままにみて」「ありのままをさわり」「ありのままをきき」「ありのままをかぐ」。この「ありのままに」ということの困難に、建築はもとより、音楽、絵画、映像などに携わる、いわゆる「作家」は難儀するのだが、そうした困難を、なんなくできている「身体」を携えているところに、彼が建築界の巨匠である所以を私は見るのである。身体が透き通っているのだ。

メモ(2018/7/5)

制作における「リサーチ」というのは、「未知」や「違和」でしかない、「理解不能」な事象、事物、状況に対して、自分自身の既存の枠組みをはずし、その事象や状況が現に目の前にあらねばならぬ、その因果を、「世界」や「歴史」の側から覗くためにするのだと思う。不気味な「他人」でしかない、目の前にあるそれを、自分の新たな「現実」の枠に組み込み、受け止めていく作業。理解不能なものが存在することへの整合性を作り上げ、「世界に同期する」そういう作業かなと思う。
例えば漱石の「硝子戸の中」とか、尾崎放哉の俳句なんかは、自分の身の回り(=環境)で引き起っていることを、「写実」しているわけだけれど、それも、ある意味では、「異物」に対する「免疫」をつける作業なような気もする。外部はいつでも、現実を更新する契機を投げているのではないか。
今どれだけ枚数を費やしたところで、なにも出てこない。無意識に書くものは、前と何ら変わりなく、もう今の自分から見れば、浅はかにしか映らない。他方で、配置、入筆、造形に意識的になればなるほど、作品がよどんでいく。ここまでやってきて、見えてきたのは、もうこの作業の先には他者はいないだろうということだ。臨書に戻ろうと思う。

短歌、俳句、詩の合流①(2018/3/22)

ダダの詩人(私はダダ時代のものよりも、禅を経ての彼の作に好むものがあるが)として知られる高橋新吉は、著書『詩と禅』において、以下のように述べている。
 
明治以後の日本の文学が、西洋流に毒されて、本来の純粋性を失ったことは再説の要もないが、このまま空しい努力をつづけてゆくよりも、短歌、俳句、詩の三者が、手を合わせて、りっぱな詩を育ててゆく方向に志すべきではないかと、筆者は思うのである。(中略)将来は、短歌や俳句は現代詩の中に解消してしまうだろうと、筆者は思っているのである。(『詩と禅p3~4』)
 
この書籍の刊行が昭和44年とあるので、高橋新吉が上記の指摘をしてから約50年が経とうとしているということだ。果たしてこの50年の間に、短歌、俳句、詩の三者が、手を合わせたような、そういう傾向を持った詩の存在は確認されただろうか。このような問いに対して、私は悲観的な立場をとる者ではない。「原民喜」の詩を、その筆頭に挙げたいと思う。
ただしここで断っておかなければならないのは、原民喜の詩集の刊行自体は、彼の没後、昭和26・31年にそれぞれなされていて、「短歌、俳句、詩の合流」が高橋新吉により提起されたのが昭和44年なので、彼がそうした提起をする以前、すでにその「合流」の萌芽は日本で出ていたということになる。高橋新吉が原民喜の詩を目にしたことがあったかは果たして定かでない。
原民喜はいわゆる詩壇に属して詩を発表することはなく、生前に書かれた詩は遺書と共に死後発見され、友人らの手によってこの世に送り出された。
また、仮に民喜の詩を知っていたとして、彼がそれを「短歌、俳句、詩の合流」として捉えていなかっただけかもしれない。これ以上の詮索はしない。いくつか原民喜の詩を挙げてみたいと思う。
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「朝」
朝はとつくに来てゐた
雀ばかりが啼いてゐた
桜の花がにほつてゐた
空は青く晴れてゐた
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「夜の秋」
きりきり虫が啼いてゐる
厨の土間で啼いてゐる
あまり間近くで啼いてゐる
きりきりと響くその声
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「窓」
窓を開けてくれたのは誰だ
空か お前であつたのか
崖のすすきはさうさうと
雲の流れに揺れてゐる
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「卓上」

 

牡丹の花

まさにその花

力なき眼に

うつりて居る

 

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 「旅の雨」

 

雨にぬれて霞んでゐる山の

山には山がつづいてゐる

真昼ではあるし

雨は一日降るだらう

(『原民喜全詩集(岩波書店)』)

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一読して気づかされるのは、その「短さ」である。これについては、『原民喜全詩集』の解説で若松英輔氏が指摘しているように、民喜が「杞憂」という号で若き日に俳句を詠んでいたこととの関連があるように思える。「句境における形而上の経験をさらに深め、五七五の枠から創造的に逸脱して、今の詩として刻むこと、それが彼の試みだった。彼は透徹した美の見者であると共に、様式の模索においても従来の常識にとらわれない独創的な詩人だった。(若松英輔/『原民喜全詩集p189』)」

このような民喜の「短詩」に、なぜ私は「短歌、俳句、詩の合流」の萌芽を見ているのか。以下に整理をしていきたい。
○何となき 草の花咲く 野べの春 雲にひばりの 声ものどけき (永福門院、風雅集巻二122)
○秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる(藤原敏行 古今和歌集巻4・秋歌上169)

○くたびれて 宿借るころや 藤の花(松尾芭蕉)

  

日本の和歌の特徴の最たるものはその「短い形式」であろう。和歌の基本的な形式である五七五七七の「短歌」、16世紀以後に誕生した五七五「俳句」。極限にまで字数が切り落とされた形式においては、漢詩や新体詩に見られる具体的な描写・論述というのはほぼ不可能である。
通常は主語すら省略され、主体と客体が「融けた」形で歌が詠まれる。取り巻く環境世界に自らをを挿入し、「自然」へと同化する。もともと「和歌」の「和」の本質的な意味は、「互いに和らぐ」というものであり、詩人の大岡信は、これを受けて、和歌の理想は、「超自然の力の恐るべき力をやわらげ」ることにあったのではないかという推測をしている。
古代・中世においては、天災を押しとどめ、流行病から人々を守る「呪文」として、和歌が機能していたとのことで、古今和歌集から始まる「勅撰集」の理念や治世の理想には、そうした「超自然」と「人間」の調和があり、その最たる手段としての「和歌」が捉えられていたという指摘は大変に興味深い。
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(原文)
やまとうたは、人のこころをたねとしてよろづのことの葉となれりける。世中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける(紀貫之、『古今和歌集』仮名序)
               
(訳)
和歌は人の心を種として茂った言葉の葉のようなものだ。この世に生きていれば、いろいろなことが起るから、そんな時に、心に思うこと、見るもの、聞くことを、歌に詠むのだ。花に鳴く鶯、水に住蛙の声を聞けば、この世に生きているものの中で、歌を詠まないものなどあるだろうか。(いや、みな詠んでいる)
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さらに大岡氏は、紀貫之による仮名序を引きながら、日本の和歌の核心に「人のこころ」があるという点に着眼している。山川草木に共鳴し、鳥獣虫魚と共に歌う「人のこころ」。こうした相互作用としての『うた』を可能にする詩形として、少字数、単純性、暗示力などといった性質を備えた「和歌」の形式は、大変に有利に働いたのではないかと大岡氏は言う。これは言い換えれば、和歌や俳句といった極限にまで字数が切り詰められた形式においてしか詠めなかった「うごき」が、日本人の「こころ」の中にはあったということだ。そのような「うごき」が、新体詩~現代詩の流れの中で十全に引き継がれてきたのかといえば、そこには多くの課題と矛盾があるように思えてならないし、一方で正岡子規の革新運動から始まり、現代へと脈々と引き継がれている俳句や短歌の形式や言葉遣いに対して、「近代」を経た我々が一つの窮屈を覚えるのも、また事実である。課題は明確だ。
和歌や俳句といった極限にまで字数が切り詰められた形式においてしか詠めない「こころのうごき」を、
和歌や俳句といった旧体詩の形式を借りずに歌いあげていくには、どのようにすれば良いか。現代詩の形式において歌い上げていくには、どのようにすれば良いか。この課題を克服していくことは同時に、冒頭の高橋新吉による「短歌、俳句、詩の合流」の達成を約束することになると、私はそう思うのである。そして、その難題を解いていく導が、原民喜の詩にあるのだと、私は言いたい。以下では、先に引用した民喜の詩を子細に検討しつつ、その根拠を示していきたいと思っている。 (続きはまた書きます)

知性(2018/1/4)

 

『女工悲史』の著者の細井和喜蔵の妻、高井としをが記した『わたしの「女工悲史」』という本を読んだ。

 

10歳で紡績女工になり、ヤミ屋や日雇い労働で日々をしのぎながら子どもを育て、恵まれない境遇や労働環境に屈することなく、驚くべきバイタリティをもって、社会保障を求める闘いを続けた女性の自伝である。「もしも私が同じ時代、同じ境遇に生まれ、戦争を挟みながら、極度の貧しさの中での生活を余儀なくされたとしたら・・・」そうした安易な想像さえ困難な程に、彼女の生涯は過酷を極めていて、事実、彼女自身、幾度も自殺を考えたことがあったと述懐している。

 

しかし不思議なことに、その自伝を読み進めながら、わたしに湧き上がってきたのは、生きていくことへの「活力」であった。 生きていくというのは、まるで不自由で不条理なことだ。人は誰しもが、自らが生まれ落ちる環境を、境遇を、時代を、いやそもそも自らが生まれ落ちてくるということさえ、選択することが出来ない。そんな不自由と不条理の下で、唯一人間に残されたもの、それはそこで如何に生くべきかを考える「知性」であるように私は思う。そして高井としをに私が感じるのは、その「知性」に他ならない。

 

如何ともしがたい閉塞感と絶望が漂う「暗い」境遇に身を置きながら、自らの手と身体によってそれらを「明るい」ものへと変革していく彼女の生き様に、私はこの上ない、「人間」としての「姿」を感じるのだ。

 

そして、その「人間」としての「姿」を目の当たりにした私は、今私が置かれている状況、もしかすれば、今までそこに私は落胆や失望を時には感じていたかもしれなかった、そうした状況を今一度鑑みて、その状況下で「わたしが活(生)きる」とはどのようなことなのかを、改めて考える機会を得た。

 

この機会にじっくりと腰を据えて思案し、「明るさ」へとつなげていきたいと思っている。

 


コトバ(2018/1/3)

 

おそらく自分は「文学」にはほとんど興味がないのだとここで断言しても良い。自分の書いているものを見て、「これは本当に詩なのだろうか」と、答えの出るはずのない堂々巡りに陥ってしまって、結局、谷川さんでも高村光太郎でも、自分の書いたものが詩なのかどうかなんて本人ですら分かり得ないと述べているのだから、どれだけ自分がここで喚き散らしたところで、そんな疑念を解消するような論説に出会えるはずはないし、そもそも、「自分の書いたものが詩なのだ」ということを、今ここで肯定できたとして、それで何になるのだろうか。自分の書いたものを見て、「これが詩なのか」とか「これはアートなのだろうか」と問うてしまう、そんな隙がある、そのことはそのまま、別にそれらを書こうが書かまいが、自らの「実存」や「生」に大した影響を及ぼさなかったことを、つまりは、余興や悦楽として作品と関わってしまっているのだということを、暗示しているだけなのではなかろうか。

 

そんな疑念の余地もないほどに、その「コトバ」を書いたことで、確かに自分の「生」が押し進んでいった、何かが流れていった、そういう「確かさが」実感される、そんな「コトバ」を紡いでいればいい。その「コトバ」には、きっと「いのち」がある。

 

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(病床ノオトより)

 

詩をつくり詩を発表する

それもそれが主になったら浅間しいことだ

私はこれから詩のことは忘れたがいい

結局そこへ考へがゆくようでは駄目だ

イエスを信じ

ひとりでに

イエスの信仰をとほして出たことばを人に伝えたらいい

それが詩であらう

詩でなかったら人にみせない迄だ

 

(『八木重吉詩集(思潮社)』)

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増山さんの写真(2017/11/27)

 

ダムの建設のために、沈んでゆく故郷の徳山村を撮り続けた、増山たづ子さんの写真展に行ってきた。写真集は持っているし、5年ほど前にも一度企画展に足を運んでいるのだけれど、その時の感動の大きさや、その理由がなかなか言葉にできずにいたので、そろそろ整理をしたいなぁと思っている矢先、揖斐川町の民俗資料館での増山さんの写真展開催の報を見つけ、これは是非行きたいと思い、なんとか会期の最終日に足を運ぶことが出来た。

展覧会場には、大きなパネルで、数十枚の写真が展示されており、ざっと一望するだけでも、ビシビシと身体に訴えかけてくるのがある。やはりこれは大変な写真郡なのだということを改めて思った。そして増山さんが写真というメディアを通して、我々に何を残そうとしたのか、何を伝えようとしたのか、一体私は何にこんなにも心を揺さぶられているのかということについて、より仔細に写真に入っていきながら、考えを巡らせてみる。

 

おそらく増山さんの写真を語る上では、里山の文化や生活の知恵といったものの「喪失」、それを押し進めて来た近現代人の罪の重さ、という文脈が、ひとつに大きなものとしてある。もちろん、私も彼女の写真を見ていて、そうしたものをひしひしと感じる。そのことについては、全く否定しない。

 

しかし今日私が強く感じたのは、我々が失っているのは、「世界」なのではないかということだった。増山さんの写真には、現代の我々の日常には、ほとんど見ることの出来ない、真に誰かや何かと「関係すること」の感覚や、その時にだけ感得される「関係の線」が、確かに映りこんでいる。そうしたものが生活の中にあったからこそ、おそらく徳山の人々はダムに沈むまでの数百年、数千年の間、厳しい自然の中で、「生かされて」いることができたのだろうと、その「かたち」として伝統文化や知恵といったものが継承されてきたのだろうと、そのようなことを思った。

 

だから私たちが、増山さんの残した写真から、何を引き継いでいけば良いのかということを考えれば「伝統文化」や「生活の知恵」が破壊されたことを嘆いたり、かつてたしかにあった自然に抱かれた営みの郷愁に浸るのではなく、ひとりひとりが自分の身体を取り戻し、自分の身体と感覚でもって、人や社会、自然と関わっていくこと、そうして「世界」を育てていくこと、「世界」を取り戻していくこと、おそらくはそのことに尽きるのだと思う。

 


内在と超越(2017/11/9)

 

 

おそらく一年ほど前だったように記憶しているが、FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館で初めて牛腸茂雄の写真を見た。その際には、とりたてて印象に残る作家ではなかったのだが、ここ最近になり、図書館でいくつか彼の写真集を手にし、特に気に入ったものについては購入するなどしているうちに、いつのまにか自分の意識の奥底に、彼の写真の残像がまとわりついて、決して離れてはくれないので、このどろどろとした気味の悪い感触を、何とか自分の手に負えるものにしたいと考えて、今こうして文章を書いている。

 

牛腸の写真群の中でとりわけ興味を覚えるのは【self and others】と【見慣れた街の中で】であるが、

ここでは、後者、【見慣れた街の中で】について少し書いてみたい。

 

【見慣れた街の中で】の中で切り取られているのは、都市の日常の、ささいな一コマである。母親と買い物をする子ども。アイスクリームを片手に路上を闊歩する若いカップル。晴着を纏った若い女性の集団。ありきたりな日常の風景。このありきたりな日常に対して、牛腸の視点は特異なところに貫かれているように私には映る。牛腸は、目の前で繰り広げられている様々な事象、目の前を通り過ぎて行く人に対して、一貫して、傍観者の立場をとり、撮影対象についての無関心を徹底していたのではないかと私には推察される。

 

従って、牛腸が対象を捉える視点は大変に「遠い」。一歩も二歩も「引いたところ」にあるように見える。しかしそうした無関心性や遠さが、撮影対象の「肉」を捉えきることに決して矛盾しないのは、彼が目の前の対象や、そこで繰り広げられている様々な事象に対して徹底した距離を置きながらも、しかしそこに一切の批評や、嘆息めいたものを加えたりはせず、かえって同じ時代、同じ風景、同じ運命の中を、彼らと「共に生きる」のだという「告示」を引き受けて、もはや動かし難い社会の流れへと自らを挿入していった、いわば「世界」の「一成員」として、「世界への同期(synchronize)」を達成していたからではなかったろうか。

 

超越的とは、世界の外にあるといふことではなく、却って「世界」に関係付けられてゐるといふこと。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないやうに、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に、超越的内在である。かやうにしてまた、哲学は対象的認識でなく、場所的自覚であると言っても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。場所的自覚とは、現実の中で現実を自覚することである。                                     (三木清『哲学入門』)

 

 


神谷美恵子日記など(2017/9/13)

 

身体はいつも拡がることを求めている。身体が悦ぶことをしよう。明日、朝起きて、読みたい本や、知りたい作家、見たい映画、聞きたい音楽があるということ、とてもありがたいことだ。、

 

しかし、自由を得る道は、決して現在の束縛から逃げ出す事ではない。そこにふみとどまり、あらんかぎりの智慧と力をしぼって努力し、束縛を束縛でなくしてしまう事だ。束縛を手なずけて、踏み台としてしまう事だ。(『神谷美恵子日記』p123)

 

つくづくああお金を儲けるためではない仕事がしたい、と心の底から叫んだ。さらに詩や思想や学問へのあこがれに胸がうずいた。毎日毎日、家事、育児、そしてその上貴重な暇は殆ど全部内職の語学教師稼業―この生活に私は負けそうになっている。

しかし負けてはならない。そのために真理や美へのあこがれ、それを最も貴い大切なものとする心を荒らされてはならない。

雑事の中で如何に心にゆとりとうるおいとあこがれと希望を持ちつづけるか、これが私の小さな課題である。(同掲書p114)

 

今日、私は何も自分の仕事はできなかった。しかし朝にはNを手伝う喜びと、律を戸田先生のところ近くまで送って行ったときの感慨がある。律の世間に立ちむかったときのけなげな姿ー又午後は律と二人で一生懸命図鑑をくって虫の名をしらべ、小さい紙片に記して行ったときの共同作業の喜び。ミツマメのごほうびで律をよろこばしたときのこと、等ある。皆平凡な妻、母としての喜びだが皆それぞれすてがたい。(同掲書p125)

 

神谷美恵子さんは、高潔で厳格なようだが、同時に人間らしい、誤解を恐れずに言えば泥臭い。そこが魅力なのだと思う。出生や経歴だけをみれば、自分とは全く異なる世界に属する人のように思えてしまうのだが、多くの人と同じように、家庭・社会生活と理想との間で葛藤し、自らの「使命」が成就していかぬことに焦燥し、それでもなお現実を押し進めていったことが、彼女の日記からは読み取れる。そのことに、私はとても勇気づけられる。「道」というのは、そういうものなのだと安心が出来る。

 


イグナチオ教会での感動(2017/8/28)

 

四谷のイグナチオ教会での体験は素晴らしいものだった。しかし何に自分は感動していたのかと問うと、よくわからない所がある。決して建築的な空間性に惹かれたわけでもないし、パイプオルガンから流れて来る聖歌のみに感動したわけでもない、目の前のキリストの姿や十字架の輝きに惹かれたわけでもない。眼に映るもの、聞こえる音といった断片の集積から、それら断片が生まれ出た根源であるところの「一枚の岩=キリスト」に触れたということが起きたのではないかということを思うそして、近現代においては、その「一枚の岩」とは何になるのであろう。

 

原民喜の詩は美しいかというとよくわからない。そもそも美的基準とは一体なんなんだろうか。大事なことは、そこに「いのち」が息づいているかだけだと思う。その意味で、イグナチオ教会は間違いなくアートだと思う。近代の建築観においては美的ではないのだろうが、「場所」や「空間」の体験や提供を見事に果たしている。「継起」的な時間・空間、「あいだ」を作ること、それが本来のアートの役目なのではないか。美は関係ない。近代的指標としての美は、空間表出の一要素にすぎなかったのではないか。死と生の発生する「空間」。それは決して造形の追究や自律的な美の追究からは生じ得ないと思う。

 

書道史上に残された作品を、近代的な『書道』という枠組みから評価し、そのありのままを捉えることはおそらく不可能なのではないか。そこには、近代で言う所の、『文学』的価値もあれば、『歴史学』的価値もある。一元的な「評価軸」、例えば「造形」や「空間」という観点からのみで、その「価値」を捉えようとしてはならない。それも「視覚」や「理性」のなせる業だ。価値は、もっと身体的なものや、立ち上がってくる現象にこそあるように思う。

 

例えば「旅館」建築において、その「価値」というのは、どこに尺度があてられるのだろうか、

 

本来は「建築」という分野でのみ語られるべきではない「競技場」の審査委員のほとんどが、建築の専門家によってなされている現代は奇妙な時代だ。

 

書の価値を、書家が一番わかっているという錯覚と、冒涜

 

評価というのは、一体何なのかよくわからない。評価というのは、その作品と距離をおいたところから、「定規」や「制度的指標」を用いてなされている、その定規や指標というのが、そもそも人間の作り出した幻想に過ぎないのではないか、仮に作品の真価を計るのであれば、それは評価ではなく、価値からみるべきだと私は思う。

 

価値よりも、評価を気にするから、押しつぶされる。評価という行為は、主客分離している、本来の「体験」というものは、相互作用的なものであって、その際に発生する現象=価値にこそ、その真価があることを踏まえれば、評価という行為は一体何なのだろうか。権力だろうか、政治だろうか。

 

評価をするのは「制度の側」であるが、その作品の持つ価値は、「(制度的)評価」では拾い切れない。

ある部分を抽出することでしか、「評価」は可能にならない。だから、全く評価というのは「全体的」でない。

 

 

白隠とか、仙涯というのは、近代の書道の制度からいえば、「プロ」なのか「素人」なのか、何に分類されるんだろうか。また蘇軾というのは、詩人なのか、書家なのか、政治家なのか、いったい何なのだろうか、わずかこれだけを考えただけでも、近代の「制度」や「分類」の不徹底と、欠陥を感じる。

 

書道史上の名品について、近現代の書家はいろいろ言葉を並べているけれど、おそらく彼らの「視点」からのみでは、その出力のある一部分しか解読できていないように思う。書道家が、書道という制度的観点からみている「部分」に、その魅力の「全体」はないように思う。あの線や空間は、どれだけ近代的な書道的視点、また探究をもってしても、表出されないように思う。つまり今の書家が目指している絶対性、制度的絶対性は、決して「強度」を保証しない。制度の中でのみ通用する記号にすぎない

 

評価というのは、人間の愉悦や戦慄といった「肉体」とは全く関係のないもの、観念によって形成されているといっても良い。


ブリコラージュと牛腸(2017/8/21)

 

レヴィストロースにおけるブリコラージュ概念の肝要は、「寄せ集めてつくる」こと、それ自体にあるように思われがちだが、

私としては「寄せ集め」という表層に見えている部分よりも、「寄せ集め」という行為に際しての、素材に対しての主体の態度や、また寄せ集められた物たちの「連帯」の仕方に関心がいくし、仮に近現代の創造をめぐっての閉塞感を打ち破る、ひとつの要件として、「ブリコラージュ」が機能するのであれば、それはやはりその部分において、生起してくるのではないかということを考えている。

だから、決して近代人が、恣意的な態度で、目の前のものと関わり、ありあわせで単に結合させただけでは、決して創造的なものは生まれえないと思う。これに関連する議論には、井筒俊彦の『意識と本質』が絡んでくるように思うが、また後日書いてみたい。

 

 

牛腸重雄の写真には、、ある個人が、ある時代、ある場所で、たしかに存在している(いた)という、ただそれだけのことが、しかしだから故の尊さや比類なさが写りこんでいるように私には映る。自明なものとして享受している日常が、実は脆弱で曖昧な基盤の上にあり、何かの歯車が狂えば、また少しの時間が経ってしまえば、そんなものは、すぐに消え去ってしまう、そうした瞬間に内包する儚さと、だから故の愛おしさというものが、そこには写りこんでいる。

 

だから私には、そこに映る人々が、これらの写真が撮られた後、そそくさとどこかの海に移動し、何の予告もなしに、崖から身を投げてしまうのではないかと、そんな危うさを感じてしまう。いや、どの時代、どんな場面においても、同じ瞬間が反復されること

はないという視点に立てば、そんな直観ももしかすれば正しいのかもしれない。

 

我々はいつでも留まることはできないし、いつでも死に向かっていきている。

 

牛腸の写真には死を感じるし、私も彼と同じように、少しくらいは死を前提にした人生というものを立脚させていかねばということを思う。

 

 


散歩と遠出(2017/8/13)

 

花がその本源の姿として、我々に映る時というのは、花が花という記号から逃れている時で、そういう「時」の発生には、

「絶対無」ともいうべき空間が全体を覆っている必要がある。しかしその「絶対無」という空間は、花がなければ決して生じはしない、つまり「絶対無」においては、花はけっして空間の構成要素などではなく、部分であり、全体でもある、そういう特異な在り方をしている。

 

詩:

なにかに切り裂かれた瞬間のこと。歴史、現実、社会、内部生命、、、、異物が身体に入ってきて、存在様態が切り裂かれ、それを自らの確かな一部としてなんとか手なづけていくことだから、いつでも詩の作業は後手後手になる。「そうなってしまっていた」と事後的に認知することで、我々は純粋な今に移行することができる。

 

 

人間は言語=認識の中に住んでいる、日常生活は、その「安住」があることで成立する、一つの膜につつまれたものになる。

しかし外界はいつでも動いている、それに敏感な身体は、皮膚でその動きや変化を感知してしまうから、言語により「安住」していた状態と、身体が乖離してくる。その分離を解消し、身体と言語=認識を統合して行くのが詩だと理解して良い。

 

潜在している「いのち」が、その顕現や、また新たな形での表出を望むとき、いのちの「器」である私たちの日常には、出会いや出来事がもたらされる、その出会いや出来事に対して、自我の殻を脱いでいく事ができるのか、それが「いのち」を流露するか停滞させるかを分ける。

 

出口すみの書は、運動の中にのまれていく、そういう感覚を覚えさせる。 

 

「今」というのは、客体的には実在しない、あくまでも関係性の中からしか立ち上がってこない、同様に、ある過去の出来事にどんな意味があったのか、ということについては、常に、後から問い直される形でしか立ち上がってこない。つまり過去も客体的に実在するものではなく、いつでも想起され、現在から再解釈されることでしか、存在しない。「今」に統合されない、また統合の機会を逃した「過去」は、歴史の中から永劫に消え去ってしまう。

 

歴史堆積の上にある「社会」や「現実」に書かされたコトバ、受苦的に紡がされてしまった「コトバ」そこには内界と外界の一致する空間に立たずんでいることの感覚がないだろうか、つまりそうした「コトバ」とは、イメージ言語なのだと言ってはいけないだろうか、詩なのだと言ってはいけないだろうか。そうしたコトバをなぞっていくことは、我々に「歴史の現在」への移行を生じさせはしないだろうか。

 

過去の痕跡-慰問文や慰安婦の声など-を、読むだけではなく、なぜ臨書する必要があるのか、私が臨書をしなくても、もうそれを発見したのだから、それを展示すれば良いのではないかという問いが出されるが、一言で答えを言うなれば、そうした痕跡に対して、「距離」を持って、眺めて、「かわいそう」などと「悲しみ」の消費をしていたくないのだ。

このことを、通常の臨書との連関においてみていきたい。臨書において、例えば王羲之の蘭亭を手本とする場合、勿論、その手元には王羲之の手本があるのだが、それを見ているだけでは、その「本質」への接近は難しい。あくまで王羲之の蘭亭の「本質」への接近は、イメージ領域で果たされるもので、つまりそれを書いている王羲之に「なる」、身体に接近する、その空間へと移行する、憑依する、そうしたことが必要になる。

そうすることで、自らの系譜や物語の中に、そうした「他人」でしかなかった「人」やその「記憶」が、血肉化される、血肉化されるというのは、もっと言えば、そこに「線」が生まれるということだ、私も、過去の痕跡に対してそうした関わりを持ちたいし、またそこで生まれる空間の定着を紙面に果たしてみたい。

 

歴史に切り裂かれて書かれたコトバー例えば慰問文や、慰安婦の声などーは、彼らがそれを言葉にして表出する際に、「歴史という運動体」が、その内部を貫通していったのだろう、歴史という運動体に、身体を切り裂かれ、しかしそれを現実として受け入れていく、その決意性が、その痕跡には宿っている。その際の「空間」のイメージの共有を作品を通じてしていきたい。

 

 

 

思いこみからはずれると、コトバが流れて来る。枠をはずすと、考えてもいないのに、勝手にコトバが流れて来ることを実感する。そうすると、コトバの原初は決して思考にはないし、自我にもない、どこか、もっと遠くの方から、流れて来るものだということだろう。

 

コトバの発生の起源、及びその発生の空間性への接近。知解でない、ただ「流れ」に身を任せていられるような、誰かにどこかへと運ばれていくような、そうした瞬間や状態への移行、及び維持を、書道はこれまで果たしてきたのだろう。伝統の「統」とは、時代を問わず流れている本質のようなものだ、それを「伝」える技法であったその意味で、書道文化の日本への流入が、仏教の経典の伝来に大きく関連があるのも、結局、その経典に記された(記されていながら、視覚では触知できない)「生命」の伝達という所が肝になるのだろう。

 

書道:「コトバ」が流れる、その原初に「いる」ための技法。また古典はそうした状態で紡がれたもの。

 

最終的に自分がどんな風になっていたいかを想定して、それに合わせて日常を作っていく、そんなことはしたくない。今の自分で想定出来る範疇の自分など、とてもちっぽけなものだ。理性で統制し、習慣づけ、むち打ち、そういうところで出来るものなんてその程度のものだ。

 

何が詩で、何が書で、何が建築で、、、、などという、固定化した形式は、一切ない。あるとすれば、「私はこういうものが建築だと思います」という思想と、そして、実感に裏付けされた個人の意見と解釈、そして「作品」があるだけだと思う。

 


制度(2017/7/24)

 

「今自分の書いたものが詩なのか」ということは、自分ではわかりません。けれどもそれに悩むことは、「自分とは何なのか」を、「自分の内部」に求める性向に近似していることに気付きました。端的に言えば「別にそれが詩であろうかなかろうが」そんなことはどうだっていいのだと思います。誰かの眼に触れ、何かしらの形で作用する。関わりが生まれるいる。もうそれでいいのではないでしょうか。そもそもアート作品というのは、客体的に、実体として存在するものではない。「それが詩なのか」と言う問いは、非常に制度的です。外部に、客観的な指標ではかれる「詩」の基準を想定している。でも、本当の「詩」はそうでないと思うのです。関わりが生まれること、それが「価値」なのであって、もうそれ以外の整理は、どうだっていいのです。その「価値」があれば、詩ではないかもしれないけれど、「アート」であることは間違いないと思うのです。 

 

創造性:

一見何の脈絡もないようなところに、結びつきを見ること、そしてその組み合わせによって、見たこともない「かたち」を、この世界に生み出していきこと

 

頭を働かせていないときにだけ、わたくしでいられる。必要以上に自分を卑下するのも自意識の所業。

 

言葉が流れだすときには、我々は内と外が結ばれた特異な空間の中にいる。その空間の共有がしたい。その空間の共有は、個々の内部に潜在する「主体」としての「ことば」の噴出を助力するだろう。

 

過去にたしかに起きたことは、その時代や、出来事を生きた「身体」に刻み込まれている。そこにはその人が「見させられた現実」の「感覚」がある。その身体に潜む、 時代や歴史的出来事に書かされる言葉を、共有したいと思う。

 

 

臨書は、言語の「肉体性」に触れる手法であると思う。例えば、臨書において、私はそこに何が書かれているのかということは、やはりどうでも良いのだ。そこに書かれている内容よりも、一文字目が書かれ、そうして最後の文字を書き終えるまでの、運動の軌跡、空間性、状態に、同化していくのが心地よいのだ。それはとりもなおさず、身体と世界との距離が、まるでない、ある溶解した状態への誘いを保証している。言葉に触れるというのは、そうした「わたし」が、「外部」へと切り開かれていく際の、純粋な身体に「なる」ということなのであろう。

 

「ただしさ」などというのは、いつか辿り着くつくものではなくて、「今」にしかない。後から見て、それが間違っていたというのは、勝手に外部に創りあげた指標によって過去を眺めているのであり、いつでも、「自分の中の今」にいることが必要なのだと思う。「今」をひとつの「空間」として捉えると、人生において「今」に生きることを持続出来れば、結局はずっと同じ「空間」の中で歩を進めていると見ることも出来る。

 

 

どうもこれまでは、創造というのを、「面」として捉えていたのだと思う。広く、満遍なく、様々な作品や領域に触れ、古典と言われるものは全て闊歩し、そしてその行為から、抽出される形で、作品は生まれる。しかしそうではないのだという気がします。創造というのは、ひとことで言えば「線」活動なのでしょう。「縁」の世界に生きることと言い換えて良いかもしれません。

ある時、ある瞬間に、どうしようもなく、何の説明もいらない、自分の中の実感として、誰かや何かに惹きつけられること。

それは、その時、その瞬間にしか起きない交渉で、その積み重ねをしていくことこそが、自分の道を作っていく。

作品の強度というのは、縦横無尽に知識を持ち、鍛錬の積み重ねの中で保障されるのではなく、その「線」の上にいること、ある「線」を引き継ぎながら、その系譜の上にあること。その「実感」だけが保証するのだと思います。僕はやはり、詩が書きたい、私を詩の世界に引き連れたのはやはりまぎれもなくリルケであり、その後、タゴールや坂本遼などを経て、種田山頭火、原民喜へと辿り着いた。

民喜が思慕していたのが、リルケであったのは、決して偶然ではないだろうし、民喜の4行詩に、種田山頭火の陰を私は見ている。その系譜の上で、やはり、私はことばを紡いでいたい。ボルヘスやランボー、宮沢賢治のような詩は書けないけれど、私はリルケー山頭火ー原民喜に通底する「詩」を救いながら、創作をしていきたい。そして、こうしてある「線」の上に、自分の「詩」があるということが自分で認められると、どこか安心を覚えてくる。

 

 

どこへでもいける、なんでも見れる、なにもかも手に入る、何でも使える。創造性が、本当にひき出しの多さや、幅の広さに保証されるなら、どうして現代には真に創造性を感じさせるものが少ないのだろうか。私はそれは「川」や「線」の上を渡っていくことを、人間が忘れたからだと思う。

 

 

真の言語体験というのは、既知の言語=世界認識からの脱却に際する、「沈黙」や「空間」体験のことを言うのだろう。良い書に貫通している、「脈」というのは、そうした「沈黙」や「空間」において、主体の身体を貫通し、押し出し、切り裂いていった、「絶対者=いのち」の軌跡の現われを示しているとみて良い。

その流れて来たものについては、先に「沈黙」と書いたことからも明らかなように、本来は「非言語的」、「形而上的」なものに相違いない。しかし、それを誰かと共有したり、また作品として固定化するに際しては、我々は「記号」を用いる他に術を知らないでいる。それは色かもしれないし、音かもしれない、文字かもしれない。しかし色を使おうが、音を使おうが、文字を使おうが、その原初にあるものが、真に「非言語」なのであれば、

そこでの文字や音は、自然と、記号などでなくなり、単一の意味に回収されない「本質」として、たた<在る>だけである。

そうした特異な「在り様」によって構成される作品を眼前にした我々は、そこに書かれた文字が、仮に「死」など、一般には「意味」を有する記号であったとしても、しかしそこから受け取る印象は、その文字記号に回収されず、先の「言語からの脱却」においての「空間」との出会い、その想起へと誘われる。それにより、言語記号とは全く無関係な、いわゆる「ポエジー」体験、その原初の空間(身体と世界の一致)へと立ち還ることを誘われるのであろう。

 

記号の集積であるはずの文字郡が、しかし記号ではなくなり、単一の意見には回収しがたい「そのもの」として佇んでいる。

そういう特異な空間性のことを詩と呼ぶのだし、書は、その空間を、紙面に定着させる一技法だと云えよう。

 

「自力」によってはつむぐことの困難な、ある「精神状態」や「意識」に際して、それを突き破り、前へと押し出して行く、運動のこと、それを言葉にしたものが、詩。

 

現実:(潜在)意識と、認識(言語)の一致したところにある「感覚」のこと

 

これからしばらく自分が為すべきことは、広範な知識の獲得などではなく、自分にとっての「詩」や「書」の定義を、構築していくことになるだろう。自分が「詩」や「書」を感じる、そこに通底するものを抽出し、言語に変換していく作業をしていきたい

 

過去や、未来から、「今日なすべきこと」を、規定しない時間、それが「臨書」のもたらす効用なのかなと思う。その日その日に心がしたいことを、導く作業

 

自分が今何をすべきかは、自分が知るはずもなく、心が知っているのだから、あくせくせず、沈黙の中に入っていけばいい

 

自分がやりたいことがあるわけではない、こころがやりたいことがあるだけなので、自分などは、その器や通路として機能していればいい。こころの流動を妨げないようにコンディションを整えていきたい。

 

自分の特性は、根源から書や詩を考えてきたことだと思う。自分の“感じる”ところで、「詩」や「書」を探究していきたことだと思う。いまになって、知識をつけようとか、数をこなそうとかしないで、自分なりの「理」や「定義」を、構成していくこと、

そこから作品の「強度」も生まれてくるだろう

 

生命の展開力それ自体であるところの「コトバ」は、いつでも我々の自我によって抑圧され、停留させられる。「コトバ」が、より透明に、展開していくに際して、器でしかない我々は、徹底して汚れを取り除いていかなければならない。

「コトバ」はいつでもそれを期待しているので、我々の日常に、然るべき負荷や試練を用意する。その「苦しみ」に際して、我々はすんなりと既存の「自我」を脱ぐことができるのか。この次元において、「詩」の根源が立ちあがってくるのではないかと私は思う。その意味で、展開力それ自体としての「コトバ」のその都度の顕現が、「詩」になると言って良い。

 


現実と詩(2017/7/20)

 

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序詞 / 尹東柱

 

死ぬ日まで天を仰ぎ

一点の恥じ入ることもないことを、

葉あいにおきる風にさえ

私は思い煩った

星を歌う心で

すべての絶え入るものをいとおしまねば

そして私に与えられた道を

歩いていかねば

 

今夜も星が 風にかすれて泣いている

 

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「詩」というのは徹底して「現実」に依拠したものであるように思います。時間の変遷、環境の変化、歴史的・社会的な因果、それをも越えた因縁によって、暴力的に訪れた悲惨な出来事、壊れてしまった未来、目に映ってしまった現実。それらを目の前に、平伏し、打ちひしがれ、嘆き、涙し、しかしそれでもなお、「人は自ら生きることを選び取っていかねばならない」。分厚い皮を自ら剥ぎ、重い腰を上げる、あの瞬間の痛さ、そして悲しさ。

 

リルケ、尹東柱、タゴール、坂本遼、三好達治、、、。

 

私が敬慕する、詩人の作品には、いつでもそうしたものが沈んでいるような気がするのです。それだからでしょうか、彼らの詩には、節々に「真摯さ」が認められるのです。「信仰」と言いかえても良いかもしれない。手の平の中に、自らの生を留めておくなどという、卑小なあり方はもはや放棄され、頭を垂れながら「天」へと所在を捧げている、ひとりの祈祷者としての人間の姿が見えます。そうした人間の口からは、「真理」が顔を覗かせるのです。

 

その「ことば」の静けさと強さに、私はいつも心打たれ、自らの生の矮小と卑劣を恥じているのです。

 


アジェ(2017/7/20)

 

パリの街の風景を撮影したことで知られるアジェの写真を見ていると、いくつかの不思議な感覚に襲われる。ひとつめに、アジェの写した「パリ」の風景は、どこか「薄い皮膜」の中にあるように私には映ること。「夢」の中で撮られていると言い換えても良い。どこか倦怠感を伴うような、朦朧とした意識の中で撮られている。

ふたつめに、彼にとって身近な場所であったはずのパリの風景がどれも、「はじめて見た場所」であるかのような、初々しい驚きと瑞々しさをもって捉えられていること。みっつめに、パリの街がそのまま「迷宮」に見えること。少なからずの不気味さと、しかしそれ故の恍惚が並立している。アジェにとっての「パリ」は、固定された「街」などではなく、いつでも流れ、動いている、「知らない場所」であったのだろうか。

 


心願の国(2017/7/18)

疎開先の広島で被爆し、後に自殺をした原民喜に「心願の国」という作品がある。これは、民喜の死後に発表されたもので、内容としては「遺書」と整理して差支えないように思う。この作品は、誰もが一読すれば、奇妙な印象を抱くであろう。ひとことで言えば文章が「冷たい」のだ。
感情移入の余地などない、どこか突き放された場所。誰も足を踏み入れることは出来ない、不可触の空間で文章が書かれている。
社会的な動物である人間にとって、これほどまでに「孤絶」な世界はあるのかと目を疑うような、そうした民喜の測りしえない悲哀と、絶望に、作品全体が覆われている。しかし、こうした、誰とも共有できるはずがない「孤絶」に覆われた作品に、
どうして、少なからずの人々(私もその一人だ)は惹かれてしまうのだろうか。そのことが私にはまだよく分からないのだ。

歴史(2017/6/29)

 

「歴史」というものに対して私が関わる余地があるのだとすれば、それはやはり「詩」との関わりにおいてなのだろうと思う。

「詩」を、「世界の更新」であるとか「知覚の再構成」というように、ここで便宜的に整理するとして、確かに、私が出会ってきた「歴史」というのは、まさにそのような「場」のことであったような気がする。

 

自分の生きている「今」が、とうの昔の出来事-誰かの身体に刻み込まれた記憶-の上にあることが実感される「空間」。

自分の身体が、とうの昔を生きてきた誰か-それはもしかしたら死者かもしれない-の身体と分有できないものとして結ばれ合う「時」。全くの他人であるはずの誰かの記憶や人生が、現在を生きる自分の「物語」を紡ぐ「一筋の光」となって未来を照らし出す「瞬間」。今、私がしていきたいのは、こうした「空間」や「瞬間」を、書作品を通じて創出し、共有していくことである。

真の意味で、個人の生—いのち—が始まる「音」が、そこには眠っているように思えるから。 

誰人もが、「歴史の今=現実」を生きえること、「歴史の主体」となることに、私は希望を抱いている。

 

‹出来事›の記憶を分有するとはいかにしたら可能だろうか。‹出来事›の記憶が他者と分有されるためには、‹出来事›は、まず語られなければならない。伝えられなければならない。‹出来事›の記憶が他者と共有されなければならない。だが、‹出来事›の記憶が、他者と、真に分有されうるような形で‹出来事›の記憶を物語る、とはどういうことだろうか。そのような物語は果たして可能なのか、存在しうるのか、存在するとすれば、それはリアリズムの制度の問題なのだろうか。(『記憶/物語』岡真理「はじめに」より抜粋)

                                            

 

‹出来事›の記憶は、他者によって、すなわち‹出来事›の外部にある者たちによって分有されなければならない、何としても。集団的記憶、歴史の言説を構成するのは、‹出来事›を体験することなく生き残った者たち、他者たちであるのだから。これらの者たちにその記憶が分有されなければ、‹出来事›はなかったことにされてしまう。起こらなかったことにされてしまう。その‹出来事›を生きた者たちの存在は、他者の記憶の彼方、「世界」の外部に放擲され、歴史から忘却される。                        (『記憶/物語』岡真理pp75)

                               

 

 

臨書というのは、自分の中にその「手本の人」がいるということを発見する営みであろうか。例えば蘇軾の筆跡を手本とした場合には、それまでの自分の運筆は「消える」。その上で、蘇軾の「造形」を真似るわけだが、決してこれは外的なそれを真似するわけではなく、言うなればその「造形」が「表出」するまでの、運筆や息遣い、表出の現場の「イメージ」へと接近していく。その中で、ある時に、それまでの自分の運筆では決して書けなかった線や形を「書かされる」時が訪れる。そして再び蘇軾を離れて、自運に戻れば、確かに自分の字が、蘇軾のそれを引き継いだものに変化している。赤の「他人」だと思っていた「蘇軾」が、自分の中に「いる」、ないしは自分の中に「見つかる」、そうした‹共有›の場面というのが確かにある。臨書におけるこうした「変容」や「共有」の「場面」を、「物語」や「記憶」というところと結びつけて、作品化していきたい。

 

「エコロジカルな感覚」「宇宙感覚」を用いての臨書、例えば「離洛帖」に 「なってみる」「それに化す」過程では、主体が「離洛帖」からイメージを受け取り、自らの内にそれをかもしだすからだを発見する。それは主体のなかに発見された「離洛帖」の イメージが主体によって「解釈」され、「創作」されると言い換えても良い。つまり、紙面 に現れる文字は、決して「離洛帖」のコピーではなく、「離洛帖」と「主体」の「戯れ」に より、「主体」が自身の内部に「発見」した、新たなイメージによって書いた「形態」なのである。  (論文『臨書による学び(岩瀬崇)』より)

 

 

自分は明晰も、知能もないから、身体で感じた事、体感したこと、見て来たこと、そういう所から何かを探求したり、誰かに「語り」始めるしかない。

 

「なぞる」というのは、その「もの」が内包している「イメージ」に対して、主体が解釈を加え、再構成していく「創造的」な行為だと言える。芸道の「型」というのは、全てその「イメージ」を内包したもので、学ぶものは皆その「イメージ」を受け取り、自らの「形」へと昇華していかなくてはならない。

 

認識を形成しているのは、言語なのだろうが、現実や環境はいつでも流動しているから、それに接する身体はきっと、その変化を敏感に察知する。いつかの日に形作られた認識は、一時の「堤」に過ぎず、我々は再び「言語」を作りなおしていくしかない。身体と言語を常に寄せ、一致させていくこと、そこに「現実」と「瞬間」がある。

 

「永遠の相」に屹立する作品は、鑑賞者との間に「今」という空間を表象させる。それまでの「言語」=「認識」は破壊され、新たなそれらが構築される。知覚の再構成に、言語の働きは欠かせない。

 


関係性や光悦の器のことなど(2017/5/10)

 

関係性というものを考える場合に、関係がその内部で「完結」してしまっているかそれとも、そこでの関わり合いによって、個々の孤独がより強化、現前され、超越的なものや「外部」への開けへと導かれていくか、その両者を想定する必要があると思う。 現代の多くの店、イベントなどの多くは、前者の性質を携えたものが多いのではないだろうか。このような店や、イベントは、現代の歪みに対しての弛緩剤や「癒し」として機能しているように見えて、実は、その時々の社会システムや構造を、強化することになってしまっている。真に交わることがない。交わることがないということは、「裂け目」や「畏れ」がない。つまり、「変わる」ことがないのだ。一向に「開かれ」ていかない。そこでは、本当には、個人が「尊重」されてはいないように思える。イスキアの森の佐藤初女さんを、私が尊敬するのは彼女が決して、そうした安易な「癒し」としての場や機会を提供していたわけではなかったように思えるからだ。そういう人の放つ「コトバ」には、一切の扇動性がない、しかし人のこころを「ながす」ものがある。

 

互いが開かれていく、そういう契機として「関わり」という言葉を捉えてみたい。

 

自分が生まれ落ちた「世界」や「物語=歴史」に「眼差され」「挿入」を促される、そうした「空間」の創出がしたい。

 

歴史や芸術作品というのは、それ単独ではどこにも存在していない。あくまで誰かによって眼差され、解釈されることで、はじめて存在できるものだ。 

 

本阿弥光悦の赤楽茶碗『乙御前』が圧巻だった。その器は光悦が形を整えたというよりは、素材、ないしは大地や世界の側に、「このような形を今ここに現前させたい」という欲求や運動があり、光悦自身は、その欲求を「聴き」、また運動に身を寄せ、巻き込まれながら、彼らが欲する形になるように、塵やほこりを、払ったに過ぎない、そのように見えた。もうここでしか、手が止まる「時」はなかったというような、絶対的な臨界点とも言うべき「地点」で、器は静止している。その佇まいは、「孤高」という言葉を想起させるものだった。一切の外部、例えば、重力などからも、全く独立してそそり立っている。誤解を恐れずに言えば、私には、この茶碗は「現世には存在していない」、どこか遠くに属しているように映り、幾度となく器の前でため息をもらすことしか出来なかったのだ。

 

時代や歴史、他者に「作らされた」企画や作品を「仕事」と呼ぶのではないか

 

坂倉順三の建築を見ていると、一種の残酷さを感じる。それほどに仕事への執心と、洗練が卓越している。

 

 

真理が話している「ことば」と、人が頭で作った「言葉」には歴然とした差がある。「ことば」に力がある人は、決して「その人」がそれを話しているわけではなく、限りなく透明になった「その人」を介して、「真理」が話しているに過ぎない。

 

興味や関心は、決して個人の内部からは育っていかない。その人が抱える現実から、展開し、増幅していくものだ。

 

愛着というのは、その対象に、どの程度、自分が引き裂かれ、造り変えられたのかという、その点と深いかかわりを持つものであると思う。

 

言語を擦り合わせていくというのは、その人の見ている「世界」に接近し、その側からの「世界」を知覚するということを意味するのだろう。

 

ある企画や作品について、「これは、このような意味をもち、このような機能を有しています」と自ら言えるのならば、それは「記号」であることの証明になってしまっている。つまり代替が出来る。独自的でない。そういうものを超えた先にあるもの、決して自分のみでは、その役割や機能を理解したり、意味を見いだせないようなところにしか、記号に変換されない「質」を携えたものはないのではないか。私はそういう仕事をしていきたいし、またそういう人間でありたい。

 

ジャコメッリの写真は視点が「遠い」。しかし同時に対象に「肉薄」してもいる。このことは一見すれば矛盾に聴こえるのだが、この共立を可能にする次元というのは確かにあるのではないかと思う。 

 

例えばバラガン邸というのがひとつの「フォルム=姿」に達しているとすれば、それは、バラガンの世界内部空間が、そのまま現前されていると見て良い。かつて白洲正子さんは「形にならない心は信じない」といった旨を述べていたけれど、「心」というのは、このような「姿=フォルム」によってしか、触手できないし、またこの世に存在することも、証明されない。

自らの内部に「心」や「空間」があるのだと実感し、気づくことが出来るのは、そうした誰かの「心」や「空間」がそのまま現前されている作品やコトバに触れるときが多いのではないだろうか。書の世界での「臨書」にも、多分に関連のある議論だ。

 

なんらかの出来事なり感慨なり、印象なりを言葉にするというのは、そのことを現実の知覚へと組み入れることだろう。

 

わざわざ物語や、それに至る労苦、過程を語らないと、その価値が見えないというのは、やはりそれ自体の出力としては低いのではないか。偉大な作品や人物には、まず間違いなく物語や背景があるが、あくまでもそれらは後から確認された裏付けに過ぎない。

 

認識(現在の知覚)は、言語によって形成されている。それを組み換え、いかに更新することが出来るか。既存の知覚によって処理、理解される状況や対象とばかり関わっていてはいけないのだと思う。今の自分にとって、圧倒的に不親切で、理解が及ばない状況、対象に身を寄せていく事が重要なのではないか。不理解でありつつ、その状況に「いる」、ないしは、その対象と「関わる」、そうした「グレー」の状態こそが、新たな近くへと我々を誘うのではないか。

 

失くしたり、それがしたくてもできなかったり。そうした「離れざるをえない」時間がないと、「ありがたさ」を実感することもない。

 


改めて(2017/4/5)

 

人類学や社会学のフィールドワーク、また精神医療の場において、顕現される「神話的時間」とは、調査主体やカウンセラーが、

「対象の見ている世界」に触れ、またそれを通した「世界」を認識する瞬間に発生するように思う。「自分」の側から、対象に関わろうとしている限りは、おそらくそのような現象は発生しないのだろう。対象の「世界認識」の内面化=身体化を経て、主体自身の「世界」が変わっていく、既知の「知覚」が脱される、

 

アート=自分を超えて行く運動のこと。アートの発生する始原には、必ず状況なり他者からの、「関わり」=「働きかけ」がある。

そこに責任を伴いながら「応答」していくことが、アートの成立条件の土台にあるだろう。目の前の現実や、他者に応え、互いの「いのち」を増幅させていくこと。その際に重要なことは、主体だけでなく、状況や他者にも可変性・流動性が求められるということだ。自然や社会が、いつでもその形態を変えられることを拒んでいないように。「既存」の在り様を脱ぐ覚悟が相互になければ、そこに「アート」は発生しない。

 

このように考えた場合、自然がいつても身の周りにあること、そして「眼差されて」いることは、人間が生命を十全に流していく上では、決定的なことであったように思う。自然や外界からの働きかけに応答しなくなれば、人間は生物としては止まってしまう。

 

スタジオムンバイのcopper houseの動画が興味深い。ひとことで言えば、「時間」や「息遣い」を感じる。そして、動画を進めるにつれ、その「時間」に引き込まれていく。とても心地が良い。建物が、土地や環境の「進行」に内包されているように感じる。その「進行」の中で、一生命体である人間の「現在」や「過点」を象徴する形での建築物があり、環境の中で、深く呼吸をしているように感じられる。

 

ルイスカーン:「光によって作られたものは、影を投げかけ、そしてその影は光に属します」

 

ルイスカーンのインド経営大学の「光」が他の建築にも増してひっかかっていたが、彼の建築論を読む中で、糸口が見つかったかもしれない。カーンの「光」は「闇」と「ともにある」ように思えるのだ。闇と光が、並列のものとして、たしかに同居しているように映る。いや、もう少し言えば、光が闇であるようにも、闇が光であるようにも見える。その反転、また二元論的な分類の超越に私は魅力は感じているのだろう。

 

 

カーンは「建築とは人間を包む空間だ」とし、その上で「空間とは光だ」と言っている。ここでいう光とは、実際的に目に映る「光」である以上に、そうした「光」の通る領域=時間=イメージとの対面が生じる「場所」=「瞬間」を想定しているように思われる。そうした現象を誘発する場としての「光=空間」をカーンが想定していたとすれば、それは限りなく「詩人」の仕事に近い。

 

 

スタジオムンバイのビジョイ氏は、ルイスカーンのインド経営大学について、「あの建物の偉大さは、その重量感、まるで大地から生えて来たかのような接地の仕方にある。重力の扱いが-重さを感じさせるのに、それが制約になっていない。そういう次元を超越してしまっている」と言う。これは示唆的な指摘だった。私も確かに、住宅を含め、カーンの「建築」の「建ち方」に特徴を見ており、それは「大地に屹立している」という印象をもつものであった。

屹立していると言っても、それは、バベルの塔のように、重力に対して肩肘を貼って、無理強いをしているというようなものではなく、重力に対して、一切の抗力を示していないにも関わらず、しかし重力的な負荷を完全に克服し、打ち破って、建っている、そういう風に映ったのだ。ビジョイ氏は、そこから、「無時間性」という言葉を出してきている。「永遠」という概念との関連もあろうか。

 

目的もないのに、いきたくなる場所を作りたい。そしてその都度「なにか」を、つまり時に応じた「詩」を見つける場所にしたい。来た人がそこでどうふるまうかということを、ぞの人自身が決める場所でありたい。

 

原っぱ的な質を持った建築がかつて成立していたとすればそれはなぜか。それはおそらく、「その場所」の意味や役割を、その設計側や主宰者が所有していなかった、ひいては自己意識を自分で規定していなかったことが、関係しているように思う。

 

表現=認識している「世界」の提示。ここでの認識は「言語」によって構成されているということかな。言語によって定着していない「世界」は、身体に血肉化していない。言語は、身体と外界との間に展開してくるものだから、その交渉の推移を、常に新しい「ことば」によって定着しないと、認識自体が固定化する。

 

棚田は、まったく「自然」だけれど、それはなんの計画もなく作られたというわけではない。

あらゆる思索と検討、審議の先に「見つけられた」ものであるように思う。

  

○○したい、○○してもいいですか?と、その人自身が能動したくなる場所。そこには、有機的関わりや身体がある

 

既存の「宿」の形式を満たしていなくてよい。その定義は常に更新されていくし、誰が作るわけでもない。

 

なにかをまなぶうえでは、教室で有る必要はない。これが学校という形式は本来ない。タゴールの学園のはじまりは一本の樹の下であった。

 

スタジオムンバイのコッパーハウスの縁側(?)の椅子は、実際的にそこに坐る時の、いろいろな感情や場面が想起される。

ひとつの目的に、役割が限定されていない。機能や役割の解釈が重層的で、自由だ。自発性が担保されている。シニフィアンとシニフィエの議論を想起させる。あの椅子が「意味されているもの」と、実際の「もの」に、明らかな差異がみられる。つまりその空間における椅子は、決して記号になっていない

 

そこに窓があること、椅子があることが、メッセージや扇動になってはいけない。あくまでも、そこにそれが「在る」だけ。そしてそれだけが、本質的に他者との関わりを生む。

 

其処の場所や、またそれを主宰する人が、それ自身の役割や、そこで行われること、またそこから感じ取られることなどに、意識を払っていない空間が好きかな。そこで起こる現象や心象に、設計の際に重きを置いていない空間。そこで何を感じるかは、他者に完全に預けてしまっている空間。

 

本当に人のことを思って作られた空間は、決して人を操作しない。そしてそうしたものは、おそらくあらゆる角度から、「他者」について考え抜かれた後に、その論理や解答を一度放棄してしまうところから、生じるのではないかと思う。

 

理由のないことを恥ずかしく思わないこと。

 

生活を、食事、睡眠、、、、と要素の集合としてとらえると違和があるように、書も、文字、意味、造形などというように微分していると、そこにはもう書の実体はなくなってしまう

  

厳密に「食べる」という行為はない。そこには話す、黙る、、、、、などが含まれている。

 

美術館や教育の定義が、形式にすぎないように、書の定義を、自ら組み立て作品化していきたい。誰がそれを決めたというのか。これが書というスタイルに、自分がとどまってしまっていないか。むしろそれを自分が作品を通じて定義することをこそ、していかないと。

 

自発性は、人の目、自分の想定を裏切ることによって担保される

 

宿としてみなされなくてもいい、そこに人が来て、何かしらのものを持って帰るならそれでいい。宿でなくていい。

 


備忘(2017/3/22)

 

よいものではなく、自分にとってここちのよいものをみつけていくこと。

 

形をみるのではなく、形に至るまでの動きや、その形を構成する生成力のようなものをみたい。

 

居心地や心を現そうとした時、結果的に「かたちが整う」ということになるのだろう。

 

スリランカのバワ建築やインドのスタジオムンバイ建築の外観は興味深い。とうの昔からそのまま存在していたかのように見えるほどに、あたりの環境に深くなじんでいる。「建っている」という感じがあまりしない。環境から湧き出て来たかのような様相をしている。

 

黄庭堅の細字は、「後追い」をしているように映る。先行する「動性」があり、それを「後追い」をする過程で、文字が刻され、白の上に黒が展開している。だから紙面には気脈が貫通し、張り、弾力が感じられる。

 

操作性:外界や他者からの働きに対する操作、これをしている限り、詩はない。

近代の書は皆、操作的だ、しかし受動に寄り過ぎてもいけない。

 

建築における空間の強度の高め方、その方法を、言語や書においても、適用していきたいと考えている。素材、構成の選択は、全くもって決定的なものだ。

 

歴史や古典、世界はそれ自体としては、つまり客体的には生命を携えてはいない。そこに生命や接続する流れを見出せるか否かは、全くもって、主体の在り様に左右される。

 

アーレントのいう公共性は、個々人が決して十全にはわかりえないこと-孤独-をその条件としているのではないか

 

「関係すること」は必要だが、それは決して同質性の希求であってはならない。

 

寂しさを紛らわすための関係を欲した時、そこには「救い」はないように思う。

 

建築や椅子は圧倒的に機能から造形に至っている。今日の書において、そのことをどう考えようか。

 

「こころ」というものの存在は、「かたち」を通じてしかこの世界には確認されないが、しかし、その「かたち」はあくまでも当人にとってのそれであるので、誰かがその「かたち」を模したとして、それが「こころ」を表すものになるかと言えば、それは嘘だろう。しかし「なぞる」ことはできる。「なぞる」ことで、「かたち」を生成した「こころ」の動きに触れることは出来るだろう。

 

書道史において、書聖と言われる王羲之の作に、真筆がないという事実が、実は書道を書道たらしめているような気もする。イメージをもって、「原型」を想像し、迫っていくしかない。しかし、その行為にこそ、書道の本質があるのではないかと思うのだ。

  

「かたち」はいつでも、保たれることは出来ない。

 

目論みや戦略通りに、人を動かしたり、反応をひき出せたり出来たとして、そこには、コミュニケーションがあるのだろうか。

ひいては、救済や歓待、生の肯定というものはあるのだろうか。

 

世界を大事にすることだ。それは自分の身の周り、すなわち「すみか」を大事にするということだ。

 

半泥子:

底抜けに明るい。素材が生き生きとしている。いわゆる「発色」が良い。あらゆる指標や制限から離れたところにある「自由」を感じる。雄大。

 

魯山人:

よどんでいる。素材が沈んでいる。生命が下向き。

 

僕はおそらく、整ったものより、多少の荒々しさを持ちながら、しかし生命が十全に表れている、そういうものが好きなんだろう。仙厓にも、池大雅にも言えることだ。

 

器も「ことば」。身体によって関与し、印象を言語に落としていこう。

 

それが真に身体によって捉えられ、身体から発せられたことばであるなら、それはどのような隙があろうと、当人にとっては「ただしい」。いわゆる美的判断の基準はその「ただしさ」に置かねばならぬ。

 

こっちが「から」でないと。「から」から出来たものは見極められない

 

目利きと言われる人がいるのをどのように考えようかと思った時に、やはり「こころ」というのはそれだけ得難く、見えづらいものなのだということを思う。

 

今の自分にとっては、建築や家具、器などは「外国」なのだ。それを見極める眼はおそらく一種の「制度」や「文脈」を孕んだものだろう。しかし異文化に身を置き、そこに埋没する中で、新たな「他者」が顕現されることもある。

 

土っぽいけど洗練されている。ゆるいけど厳しい。素朴だけれどシャープ。このあたりが自分にあった性質かな。

 

自分の心にぴったりとくるものを探す。身近にそれを置いておきたいかということだけで判断して良い。

 

客観的、相対的な指標より、自分のこころになじむかどうかだけ。

 

茶室の闇というのは、既存の価値観を一度かっこ付けにする機能を果たしていたんだろう、客は「虚無」という「混沌」に放り込まれていたのだ。そして「虚無」において、五官は研ぎ澄まされ、知覚が入れ替わる

 

最初から、自分の嗜好などない。いろいろなものやことにあたるなかで、それは徐々に明らかにされてくるものだ。選ぶというのは、「あたる」までひたすら「ひろげ」、そして「まつ」、そういう行為だろう。いろいろなことにあたらずに、「これ」といっているのは、世界が浅い。広げて、揺さぶられ、その先にある「これ」というところにしか、動かないものはない。

書も同じだ。

 

その時に、世界から投げかけられたものは、もうその時にしか出来ない。だからこそ、おざなりにせず、そこでしか学べないことをしっかりと学びたい。

 

一旦、自分を(  )にいれているときには、知覚が研ぎ澄まされる。今まで見えてなかったものの気配を感じられる。ていねいに生きることが出来る。新しい、より洗練された「心地」を探求できる。

 

世界を限定しない、わからないまま留保する、ゆれている、ここからの着地にある「じぶん」を知りたい。世界や自分は「こういうものだ」と限定しているとき、安定はしているが、関わりとしては、全く雑だ。

 

出力は、過程における留保の濃さに影響されるんでないかどれだけ自分を離れて動き回ったか、広げていったかが、最終的に出力に影響を及ぼす

 

自然(じねん)というのは、「状況」のなかにしかない。状況に対し、主体がその在り様の入れ替わりを求められるとき、主体の中にある「危機」のシグナルが灯り、、。独自の運動が展開していくこと、それこそが自然(じねん)なのではないか。

 

 

従って、自然(じねん)は、その都度の実存と関連がある。現実に対して、緊張感を伴いつつ、生成していく作用。

 

自発性の原初は、人の内部にはない。世界からはたらきかけられた者が、状況にくらいついていこうとする、そこに自発性がある。

 

自然(じねん):

世界に試された者が、状況に埋没し、危機感を伴いながらもがくこと。またその中で、自らの立脚点や知覚を造り変えていく運動。だから、自然(じねん)は適応と言い換えてもいいかもしれない。先にある難題や困難に対し、正面から対峙するとき、其処に⦅世界⦆を動かしていく運動=自発性が発生する。だから世界からの働きかけを避けていれば、生命などなくなってしまう。危機や解体を拒まないことだ。

 

アーティスト的なふるまいや、習慣、勤勉よりも、世界に応えていくこと。ただそれだけを見据える。 

 

あくまでこの世の主体は、世界だ。世界からの働きかけ、世界が用意した状況に接続するか拒むのか。接続出来る者がアーティストなのだと思う。外的なふるまいのことではない。

 

仕事というのは、他者と関わるということで、関わるということは、即ち変わるということだ。しかし変わるといっても、それは突飛なことではなく、より深奥にある「個」というものが、直視され、明示され、顕現されていく、そういうことだと思う。事後的にしか「個」などわからない。そういう関わりのある仕事をいくつ展開し、呼びこんで行けるのか。

 

「事実」はいまだ、「現実」ではない。「事実」に対峙し、いかにそれと関わり合いをもつのか、そこに「現実」がある。従って、「現実」というのは、客体的には存在しない、イメージ領域に属すものなのだろう。

 

いい家に住んでいる人-例えばジョージア・オキーフ-は、物や家を所有していない。物や家が、そのままその人の「世界」や「場所」を反映させているのではないだろうか。詩的に、それらと関係しているのではないか、という風に言い換えても良い

  

働くこと=「世界」を育てること

 

人よりも偏った部分があり、そこを隠している限りは、「触れる」ことも出来ない。矛盾や悪を孕んだところにだけ、その人特有の「いのち」がある。

 

相手を乱すことが出来るのは、自分が乱れることを拒まず、また「乱すこと」の出来る性質を露呈する時に限られる、そこにしか本質的なかかわりはない。

 

書とは改めて何かと問えば、ひとつには「世界」のリズム、すなわち個々に内在する「生命」や「構え」を想起させ、また維持させる機能を有すものだと思う。

 

言葉が鍛えられるのは、圧倒的に伝わらないという経験をした時なのだと思う

 


入れ替わり(2017/3/18)

 

大須の骨董市で、南米のペルーのものと思われる、土の置物と出会った。じっと眺めていると、不思議な感覚に襲われる。思い起こされたのは、「息を飲む」際の身体の働きだった。海底へともぐる寸前、意を決するあの一瞬の、身体の「身構え」。そのようなものがありありと感じられたのだった。購入はしていない。

 

人の生きるのが、外界でも内界でもないその「間」の「イメージ領域」であるとして、書作品に表象される空間というのは、これに属するものになるのではないか。井筒俊彦の『意識と本質』などは、言語を超えたもの-イメージ-を、言語によって定着させた名著であると思うが、優れた書においても、やはりそのような感慨を抱かせるものは確かに存在するように思う。言語を絶したところにある「空間性」、またはそれを構成する際の「世界との関係性」といったものが、あえて言語が使用されることで、具象化され、この世界に定着されているのではないだろうか。

 

● 

動物は、自分と他者との認識の差異を意識化できないのだそうだ。他者との視点の違いをはっきりと「欠落」として意識し、それを内面化していく作業を繰り返していくこと。人間の創造性はおそらく、同じ「世界」をどれだけの角度から観れるのかに依るのではないかと考えている。

 

現実への対処として、切迫的に希求しないと、どうやら私は何も動かないようだ。学問や感覚の鋭敏はあくまで、生存の学として捉えていきたい。

 

ファシリテート=意識下に潜在する本音の誘発。ここでいう本音というのは「直観的言語」と言い換えても良い。

 

詩=「世界」に流れている技法。「時」を流す技術。ある状態の固定を拒み、存在を更新していく儀礼。

 

バーナードリーチ:

素材のもつ特性を引き出すセンスが卓越している。素材と作り手が溶けている。素材を「扱っていない」、そういう「手」を感じさせる。艶があり、淀みがない。大変に純度が高い。皮膚にしっとりとなじんでくる感覚。ぐっとどこかへと引き込まれていくようだった。ああいう感覚を「えもいわれぬ」と言うんだろう。

 

富本憲吉:

禅的な、探求といってよいのか、純度の希求が、良い意味で単線的な気がした。

 

山肌に刻字;大地の運動の記録

 

 

それまで見てこなかったものを見て、じっと身体から出て来る言葉を探る時というのは、実際的に近くが入れ替わっているのだと思う。それを言葉にしてしまえば、それは日常に感覚として定着する。

 

誰かが「見えている」ものを、自分が見れない時は、謙虚に、その視点を内面化するように、「ことば」を止めてしまうこと

 

一度ことばをとめて、身体で構える、そこから言葉が出て来るときには、知覚は入れ替わっていくのだろう。

 

ルイス・カーンの建築の写真集を眺めていると、自然と心が洗われていくのがわかる。澄んだものを見ると、心は健やかになるのだ。建築にせよ、家具にせよ、照明、その他調度品などというのは、「そこにいるとき」「それをつかうとき」に生まれる心の振幅や状態、つまり「心地」からその是非が判断されるのが良いだろう。それを見極める際に働かせる機微のことを、古人はおそらく「心眼」と呼んだ。あらゆる空間や物に対面した際の心の動きにもっと鋭敏にいたい。その積み重ねが自分にとっての“空間”を作り上げていく礎となるだろう。

 

 

良い/悪いよりも好き/嫌いの判断をする。そうでないと、自分の世界が炙り出されていかない、良い、悪いはあくまで相対的な世界にある、外部化された基準だ。そこに判断を預けていては、自分と世界との関わりはなにも見えてこない。数をみて、とにかく「あたる」のを待つこと。

 

同じものをみて、違う様に見えるというのは、認識や世界が変わったということだが、それは直線的に何かを積み重ねるなかで見えて来る景色というよりは、全く異なる分野や世界に身を置く中で、従来とは異なる視点を獲得することに拠るのではないかと思う。その異なる視点を獲得しない限り、いくら鍛錬をすれど、身についていくエッセンスは変わっていかないんでないか。いわゆる「制度」の限界を破っていくには、大いに寄り道をしなくてはならない。

 


発見の日々(2017/2/8)

 

ここのところ、思いもよらぬ発見がいくつかある。そのいくつかを書きだしてみたい。

 

●愛着

 

石徹白の家を買った当初は、「ここを購入して本当によかった」のかと、そんな疑問を正直感じていた。しかし、実際に、手を加え、空間が少しずつ変化していくのを目にするにつれ、これまでにはなかった「愛着」を感じるようになってきている。これが何に由来するのかと言えば、「家が育ってきている、改まってきている」、その過程で「自分自身が育ってきている、改まってきている」からなのだと思う。そしてその双方向のやりとりの中で作り上げられる空間に、人間にとっての根源的な意味合いでの「住む」という行為があるのではないかと最近は直観している。

時期には、ハイデガーの「住む」ことについての文章なども読んでみたい。そして、これは何も「家」に限った話などではなく、広く「地域」「他者」、ひいては「世界」への「愛着」、それを受けての「生の肯定」へと接続する話であろう。

 

 

●住む

 

「住む」という行為は、主体の内部生命(=現在)と、外界(環境・状況)との一致に観られる、特異な現象なのではないか。

青木淳氏は『原っぱと遊園地』において、「家」という空間が、そこに暮らす人間の行動を制限してはならないという旨のことを記しているが、(そして、現代にみられる建物の多くが、そうした制限をしてしまっているという警鐘を鳴らしているが)これは何も、「家」に限ったことではない。「社会」という空間においても同じである。本来「流動性」を持つはずの「人」が、極めて固定化され、硬直化されるところに、システムが向かっていっている。ハイデガーの「世界内存在」とも関連する議論になろう。

 

 

●言葉

 

ことばは「間」に展開する運動のことなのだなと最近思う。その動力は、単独では決して発生しない。書における「手紙」が、なぜあれほどに「詩的」なのかがようやく腑に堕ちつつある。

 

 

●場所

 

場所というのは、「言葉が生まれるところ」のことを指すのではないだろうか。

「自分」を超えて、「じぶん」が産み落とされる、そうした運動が展開する瞬間のこと。

そうした場所を、実際的な建物や空間として造りたい。

 

 

●時間

 

このところ、特に年始以降、「自分の人生」「自分の時間」を生きているなと思うことが、よくある。誰の眼でもなく、自分の価値観で、生きることが、少しずつでき始めてきたのかもしれない。「何かのために生きる」のをやめたことが大きい。「良い字を書くための人生をやめた」。そういう時は、その時、その時に、自分がいられている気がしていて、眼に映る「モノ」から発するものを、逐一、注意深く見ているような気がする。逆にいえば、知らぬ間に、自分の尺度や指標が、どこかに放り出されていたのかもしれないなと、少し反省もしている。

 


自省として(2017/2/1)

 

人に嫉妬しないこと、自分の「好き」に傾倒すること。いちいち人の仕事に口出ししないようにしたい。何かそこに口を挟むのだとすれば、それは自分との「相違」を見出し、他者を、そして自分をより深く「見出す」ということにおいてのみするべきで、あらさがしや、卑下、「自分」の世界の正当化のために、わざわざ言葉を要しないこと。魂が鈍る。

 

 

表現する者の条件に「他人を蹴落とす」という項目はない。

 

 

「個性」がある限り、良いものは、幾千、幾萬と無数にある。カテゴリーによる判断をなくすこと、良いものは良いと認めること。

 

 

人と比べない、自分の「世界」を積み上げ、練磨していくだけ。

 

 


正月前後の備忘録(2017/1/5)

 

例えば詩を書かないで、例えば本を読まないで、それで日常が十全に過ぎていくのなら、それはそれで良い。芸術などというのは娯楽などでは決してないのだから。

 

 

訓練や、鍛えるという発想を、もう一度捨てる。

 

 

自分の知覚にしか現実はない。人の世界解釈、作品批評は参考になるが、自分の現実ではない。

 

 

病むことが出来る者として生まれた、その責任もあれば、その苦しさもある。無理に一般化などしないことだ。苦しいものは苦しい。

 

 

「世界」の共有。共に確かにあるのだという空間。

 

 

表現をする、そこに関わりがある、それで十分だ。

 

 

僕のやっているのは「書道」というよりは、書道というメディアを探求する中で、本来的な人間の在り様や関係性、共同性などを思考するということなのかもしれない、それによって自分の在り方が更新され、より純化されていく。それによって、おそらくは「人の偏見」をはずしていくことも出来るのだろう。

 

 

苦しさの共有が、共同性を構築していくには重要なものである気がする。同じ世界に住んでいるのだということへの安心感。

 

 

これまでは、外れていることへの卑下があった、しかしこれからは外れているが故に関われること、出来ることに眼を向けていきたい。

 

 


歴史の上にいる感覚(2016/12/21)

 

 

ハイデガーのいう共同運命に支配された主体というのは、いうなれば自分をとりまいている「現実」=歴史的堆積に入っている。

それは極めて理不尽で「受苦」的なものだ。だがその「現実」を引き受けた主体が生きる時間というのは、超時間的・無時間的なものになるのではないか。

 

過去の記録物や死者の痕跡には、「歴史の上に生きることの感覚」が記されている。そこにしか「生命」の存在は刻印されていない。

 

歴史の上に生きるというのは、「主体」が自らを取り巻く「状況」とどのように関わるのかという話に帰着する話だと思う。ベンヤミンのいうように、直線的・進歩的な<集団の夢>から目覚めたものは、かつて「歴史の上」で「生命ある生き方を貫いた」死者の痕跡から、自らの生の在り様を提示されるということだろうかつまりどの時代に置いても、外面的に果たす仕事や役割はことなれど、その根底の部分においては、人間の本来的な生き方や在り様というのは、たいして変わらないのだ。

 

現代において問題なのは、そうした《現実》に入っていくことが難しくなってきていることだ。ピエールノラは、何らかの共通の知識の基盤が失われてしまえば、異なる時代や世代の間のコミュニケーションは途切れるとし、そうした基盤としての記憶の危機を、現在と過去との分離として説明する。仮想空間から、《現実》へと人を突き動かすのは、説教ではなく、特異な「空間」との出会いであるのではないかと思う。それはベンヤミンが現在時として名づけたものだ。その「空間」をどのように創出できるか。

 

牛腸重雄の写真について田中純氏は、「遠さ」と「近さ」ということ論じている。「ひたひた」と身に迫って、溺死させるように「触手」でまとわりついてくる「日常」の触覚的、皮膚感覚的な、圧倒的「近さ」に対し、牛腸がここで写真によって日常的光景に与えているのは、絶対的な「遠さ」の感触であったように思われる。(『過去に触れる』p454)

ここで私的な解釈を挟むとすれば、

近さ:共同運命を引きうけ、他者と共に、現実社会にいること

遠さ:しかしそれとは全く別の永遠の相の上で生を進めていること

この近さと遠さというのは、どちらかが独立して成立することは決してないのだろう。

 

 

東松照明の写真について、多田浩二は『ヒストリカルフィールド』という語を使用した。ある時代的な<風景>を、歴史的堆積物として、イメージ的に切り取ったもの。そこには、目の前の現実を引き受けて生きることの「覚悟性」が映る。それは外面的には「全く映っていない」様に見えるのが、重要なのは、それを切り取った「空間」を読むことに他ならない。田中純氏は、これを「写真家の主体が世界および歴史と「詩的に」交わってイメージが生まれることを準備する場」と記述した。(前掲書p478)

 

ミメーシス=模倣は、オリジナルの複製ではなく、そこに含まれている「コア」のようなものを解釈しつつ、再構成する営み。

 


立てる像(2016.12.14)

 

松本竣介の「立てる像」

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/135511/0/1

 

この作品は、確か4年ほど前に、世田谷美術館で見たのだと思う。当時は、松本峻介という画家の名前すら知らなかったのだが(恥ずかしい限り)、この作品に接して、「こんな凄い人が近代の日本にいたんだなぁ」とただただ感慨に耽った。当時、抱いた印象としては、暗い都市の景観(これは早稲田大がある高田馬場だと言われている)から、まったく独立したところに、一人の青年が「屹立」している、そういうものだった。

 

どれだけ周りの環境が暗かろうが、全くそういうものとは無関係のところに、自分の「基盤」を置いている、そんな感じがした。

この時には、そんな「立ち振る舞い」の凄みに圧倒されるばかりで、それ以上の詮索には至らなかったのだけれども。 今改めて見ても、この立てる像に描かれた人物は、確かに仁王立ちをしているように映る、明かに意図的に描いたとしか思えない程に、周りの景観に対して、人間が大きい。一見すれば当時抱いた印象の通りで、「周りでどんな悲惨なことや暗いことがあろうが、自分はそんなことには左右されない、そんな人生を歩む」、そんな風に叫んでいるように見える。

 

しかし、よく見れば眼はやや虚ろで、決して「意志」の強さを感じさせることはない。どちらかと言えば、肩の力は抜けている。

今にしてみれば、この人物は、全く周りの環境からは独立などしていない。

 

ハンナ・アーレントの言葉に、以下のようなものがある。

「誰も自分の人生の物語りの著者(author)ではない」。

この「立てる像」を見ていると、松本峻介というのは、そんなアーレントの言葉を見事に体現した人物だったんだなということを想う。そして、彼の残した作品は、一時代の風景を切り取った歴史的記録物でありながら、しかしこの先にどれだけの時が流れようと、どの時代においても不変な「本質的な世界との関わり」というものを我々に提示するのだろう。 

 


省みる(2016/12/5)

 

 

自分が<社会的>な存在であることを、もう少し意識せねばならぬと思う。歴史的な因果、関係性のもとに、今の自分が存在していることにこれまで、あまりに無自覚に過ぎた。それらに自覚的でいるというのは、もしかしたら<原罪>を抱えた存在として自分を捉えることなのかもしれない。<生かされている>ことを知らない存在には決してなりたくはないのだ。

 

 

外的な指標や報酬に左右されない日常の<強度>を持つこと。人の評価や顔色が気になるのは、日常に隙があるからだ。勘違いかどうかは、誰も決められない。生命があればそれで良い。

 

 

人生は何かを成すための舞台ではない。暇つぶしの期間だ。必要なことは、その暇をもてあますことなく生きること。

 

 

本が読めない。その意欲がないからだ。今、言葉を読んでも、頭だけの整理になってしまう。そういう読み方をしたくない。

 

 

自分の当たり前や普通が、人にとってはそうではない、ここに人と関わっていくことの条件があると思う。

 

 

今は、とにかく練習をすることに違和感がない。ようやくエネルギーがそちらに向いたことに、少し安堵している。

 

〇 

 

平常は練習、物事は考えるべきときに考えれば良いのであって、無理に思考を活発にさせようとなど目論むものでない、考えることや、ときは<むこう>から訪れる。

 

 

定期的な個展の開催、人びとからの賞賛は藝術の条件でない。

 

 

<出来事>が発生した時の注力と集中、またそれが不在の<日常>における時の重ね方。その両方が必要。

 

 

近代文人の書は<たしかに>良い。しかしこの<たしかに>というのは、明治以降の書家の作品を横に並べた時に、ようやく出て来る語句であることを、もっと意識した方がよい。

 

 

別にやってもやらなくても良い。ただしやらないことには絶対に進まない。

 

 

どうやっても生きていける。ただし<生命>という重い荷物は運べない。生命という活動は、人間にとってはあまりに重い。

 

 

知識は評論家に任せておけばよい。ものしりや知識人に作品が書けるわけではない。私は作品で語る人間になりたい。知識よりも思想と精神。近代の<指標>に左右されない。

 

 

日常の強度を高めること生命に沿った暮らしを築く時間つぶしをしない自律的に時間を使う

 

 

間違いのなさそうなこと、問題が起きなさそうなこと、人が評価してくれそうなこと、人に分かってもらえそうなこと、そんなことよりも、自分の生命を重視することだ。生命があれば良い

 

 

真価は作品にだけ。知識はいらない。

 

 

ニコニコ愛想よく雑談していても、僕のみたいものは観れない。仕方ない。良い顔してても仕方ない。自分の求めるものにもっとがむしゃらになる。人の顔を窺わない日常の強度。バランスが整っていることを求めない。自分の求めるものを見れるようになること、それがもっとも大事。勘違いや誤解を恐れていてはいけない、それを超える自分自身の強度。欠落があるのなら、そこを活かさないことには救われることもない。そこにしか望むものもない。

 

 

自分の専門性を高める時期に入ってきている。他者を追従して、媚びを売って、安易に出会おうとしない。なりふりかまわず、専門を高める。そこで出会うことを望む。

 

 

専門性を磨くというのは、人には理解されない世界へ入っていくということだ。しかしそこには生命がある、発見の悦びがある、日々の充実がある。それら手ごたえを重視することだ

 

 

自分に出来ること、出来ないことを知る。他人が出来ること、出来ないことを知る。そこに優劣や、欠落を感じないようにすること。嫉妬しない。そこから関係する。器用にこなそうとしない。小さくまとまらない。

 

 

長谷川利行、松本俊介のような求道的な作家に強く惹かれる。

 

 

詩や書の<外形>や<理念>のようなものを概ね理解できた。これからは、より込み入った部分-技法-への注力が必要になるだろう。

 

 

その背後にあるものに眼をやること一面だけを見ない。 

 


白隠の円相(2016/12/1)

 

白隠の円相を間近で見る機会を得た。断片であるが、以下にその感想を記す。円相というのは、真っ白な紙に、ひとつの円を書くことで成立する作品である、書き手によって書かれる「線」と、それ以外の部分(「空白」)がはっきりと区分けされることで、円相は成立すると一般には考えられる。

 

しかし、白隠の円相のおける「線」は、完全に紙の空間と一体化してしまっていて、どこか線と空白の境なのかということが、看取できなかった。もう少し言うと、「紙に線が溶けてしまって」いた。しかし奇妙なことに、それをずっと眺めていると、

白隠によって書かれた線の部分が、全く紙の上から独立して存在し、紙の上から全く別の空間で浮遊している、そんな感覚に襲われる。世界という有限な場における、無限を表象した作品に、ただただ感嘆することしかできなかった。

 

 


断片(2016/11/13)

 

ベンヤミンのパサージュ論における「形象」との出会いに至るまでの空間性において、主体は「陶酔感」を体感するといわれるが、これは間違いなく「神話的時間」においての対象や土地との接触を意味している。その空間性において、街は、表象に見えている「現在」としてではなく、その街が辿ってきた堆積と変遷の層として知覚され、主体には、街の古層を遡っていく感覚が生じると同時に、しかしそうした歴史的な変遷などとは全く無縁の「無時間」的空間を感覚する。その特異な状況の中で、主体は「形象」と出会い、「歴史の上の今」と出会い、「歴史の主体」としての人生を歩むようになるという。

 

 

 

真に社会や歴史に入り込んだ者は、社会や歴史に深く潜りこみながら、しかしその地平とは全く別の空間性を携えて歩を進めて行く。この空間性には、無時間性というものとの関わりがあるのではないかと私は感じるのだが、無時間性は、絶対的にその時代や社会と接触し、同期することなしには、体感し得ない。非情で無常な人間社会や歴史、社会の中に身をおくことでしか(=世界内存在)、人間は無限や無時間性、永遠性を看取しえないのだ。そしてこのような生き方こそが、ベンヤミンのいう「歴史の主体」としての歩みなのではないか。

 

 

アートの課題はあくまでも「歴史の上の今」を現出させることであると思う、洋画家の松本峻介は、戦争であれ、人であれ、「永遠」の相の下で認識し、描いていくことが大切なのだという旨を述べていたように記憶するがではどのようにすれば、戦争や、都市の風景などを「永遠の相の下」で認知出来るのかといえば、それはやはり「神話的時間」においてしかないのではないかと思う。「今目の前に起きていること」=現在の表象を、それ単独ではなく、それが表象するに至った「古層」や「経緯」までをも体感出来る空間性に身を置きながら、「現在」に出会う制作を行うということだ。そこで描かれた作品は、ある時代を切り取っていながら、しかし空間性においては「神話的」なものを表出させているため、それは観る者に「永遠」の感覚を現出させると同時に、またその人間がそれを見えている「現在」を見事に暴くという仕事を果たすのであろう。

 

 

神話的時間の中にしか、世界内存在の時間的推移はない。

 

 

アートの課題は「今」=「現実」という特異な「感覚」を表象することに集約される。それを可能な者は、永遠=無時間性の世界に身を置きながら、しかし社会や歴史に深く入り込んでいる者だけではないか。「現実」という感覚は、外界と内界との間にしか生じない。従ってそれはイメージの領域に属するものであるはずだ。ベンヤミンのいう形象というのは、そのような意味での「現実」において、試行錯誤され、形成されてきた死者の痕跡ということであろうか。そこでの主体は、あくまでも「間」である。

 

 

古事記やコーランは口述筆記の形で、この世に残された。これは伝承を考えるにあたって、非常に示唆的な史実だと思う。

 

 

書の線の極地は、それが歴史として定着され表象されていることであり、またその線が刻まれた紙面の空間性が、永遠の「一点」の反映になっていることなのだろう。

 

 

人間は生きる環境の推移に対し常に遅れをとる。それは、原生林に住む場合でも、都市部に住む場合でも、変わらない。それらの移行に縋りつく技術が、詩であるように思う。

 

 

自分を忘れる作業をした時に、思考は流れ始める。自分が流すわけではない。自分に出来ることは、流れて来たものに秩序を与えること、また流れるように自分をいつでも忘れておくこと、それをするまでだ。考えても流れない。

 

 

外界は、それが自然であれ、社会であれ、いつでも暴力的、理不尽なものだ。すでに生まれ落ちたときには、そうした環境が眼前にあり、人はその理不尽な場所へと入っていくことでしか命を紡いではいかれない。そこには必然的に悲劇がある。しかしその悲劇をこらえ、明るさへと昇華する技術を人間は生み出すことができた。それが神話であり、物語であり、芸術なのではないか。

それらを通じ、人は「永遠の相の下」へと所属を移すことができる。ベンヤミンのいう「形象」は、「本来的な人間と自然との関係性」が内包されているものであったが、それを通じて、歴史の主体になるというのは、永遠の下で、現実を生きる決意をすることであるように私には思える。そこでは、人は自らの主体性を永遠に委ねながらなお、外部の動き(現実の推移)に徹底して預けることになる。

 

 

「現実」というのは「感覚」のことであって、事実のことではない。その「空間性」の創出こそが、アートの至上命題である。

東松照明は、被爆地としての「長崎」や被支配地としての「沖縄」を撮っているが、それは、彼自身にとっての「現実」が更新される契機の記録であり、それを通じて我々に伝達されるのは、「現実を更新する」=「世界に切れ目が入る事」のimageなのではないか。

 

 

芸術は、その外面に出ているところを鑑賞するものではなく、全く書かれていないものを表出させ、現前させるものだ。従って、それは徹底して「image」の領域に属する。

 


備忘録(2016/11/8)

 

自分の生きる時代の「現実」に十全に入り込んでいることと、その時代から離れたところに存立していることは、一見矛盾しているように思えるのだが、本当はそれらは同義で、両立することなのではないかということを考えている。時代性を切り取れる作家というのは、自分の生きる時代の「現実」を他の誰よりも感じ、直視しながらなお、時代の影響によっては、自分の存立する「場所」を脅かされないような、そうした人間としてのある普遍的な「空間性」を携えて生きているのではないかということを思う。

外界の状況というのは、時代によってひどく変遷するのだが、どのような時代においても、その「空間性」自体は変わらないので、その視点によって捉えられた作品は、どれだけの時を経ようが、それを鑑賞する者に、その都度の「今」を現前させる。おそらく「神話」というものは、古来からそうした機能を果たしてきたのではないか。ここでは「神話」を、「人間」と「外界」の本来的な関係性を記録し、表象し、現出させ、呼びさます装置としてとらえたい。

 

 

時代にどれだけ埋没し、入り込んでいるかということと、時代からの影響を被らずに、この世界に存立しているかということは、

全くもっと両立する。

 

 

社会は必ず、現実に遅れをとる。その現実を、アートは暴かなければならない。

 

 

現代における「物語」は、過去との接続の上にある「現在」を現出させる形で、ひとつには表象するように思う。勿論、いわゆる文芸の領域での「詩」による作品制作も止めるわけではないが、なにかもう一歩、社会や歴史意識に踏み込んだ作品として「書」について考えていきたいと思う。「詩」というのは、自分が立っている「現在」が、他者や歴史、書物などとの出会いによって揺さぶられ、更新される「であい」の時であるのだから。狭義の「詩」にがんじがらめにならないことだ。今は「過去」や「歴史」との詩的な<であい>、それによって自分の存立する「世界」が揺さぶられ、更新されることに興味が向かっている。「個人」としての自分を表明することよりも、歴史の中に自分を位置付けて、また発見いくことに、これからの表現の方向性を見出したい。 

 

 

あらゆる歴史的堆積の中の「一点」と、どこにも接続せず独立して存在する「一点」はおそらく同じことだ。そこに「永遠」がある。

 

 

永遠性というのは、ある状態の中で、「対象」を眼差した際に観照される特異な「感覚」なのだろう。結局、どのような時代においても、人間に求められていること、本質的な正に対する態度というのは変わらないのだ。

 


メモ(2016/10/26)

 

世界内存在の内に刻まれる「時間」こそが、「歴史」なのではないか。

 

 

以下、①②の「空間性」の、共通する部分を把握しないと思索が進んでいかない気がしている。

 

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➀戦争体験についての語り、またそれを聴く時に生じる空間性

②ベンヤミンがパサージュを遊歩する際に、「陶酔」し「形象」と出会う時の空間性

 

形象は、ただ単に特定の時代に特有のものであるということではない。それは歴史的な指標を帯びており、ある特定の時代において始めて解読可能になる。解読可能になるというのは、その形象の内部で進展する運動が、特定の危機的な状況に陥ったということである。弁証法(世界や事物の変化)は、形象において静止しており、歴史的に最も新しいものの中に、とうの昔に過ぎ去ったものとしての神話を挿入する。つまり形象は、過去のすべてを潜在的に含んでいる。歴史的に最も新しいものの中に、昔に過ぎ去ったものとしての神話=根源としての自然を引用する。

 

-過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象のなかでこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出あい、一つの状況を作り上げるのである。

 

-街路はこの遊歩者を遥か遠くに消え去った時間へと連れて行く.遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ.(中略)アスファルトの上を彼が歩くとその足音が驚くべき反響を引き起こす.タイルの上に降り注ぐガス燈の光は、この二重になった地面の上に不可解な光を投げかけるのだ. 

 

-遊歩の際に、空間的にも時間的にも遥か遠くのものが、いかに今の風景と瞬間の中に侵入してくるかは、知られているとおりである.(ウォルター・ベンヤミン『パサージュ論』)

 

-過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを 実際にあったとおりに」認識することではなく、

危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを言う。歴史的唯物論にとっては、危機の瞬間において歴史の主体に思いがけず立ち現れてくる、そのような過去の形象を確保することこそが重要なのだ。(ウォルター・ベンヤミン「歴史の概念について」)

 

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ベンヤミンの示す「形象」には、おそらく「物語」が内包していると考えられる。「物語」は、いつもは静止しているのだが、ある空間性においてのみ、誰かに語りかけ、引き継がれる。この空間性は、いわゆる「神話的時間」と言うもので、遊歩者が陶酔状態になって、表面に見える都市ではなく、それが成立し、堆積してきた「歴史」や「記憶」の層に触れるときに、生じると考えて良い。「物語」は、今はその「形象」に収まっているが、それは太古からずっと引き継がれてきたもの(=統)で、500年前には、まったく違う「形象」として、この世界に存在していたかもしれない。

 

 

 

 

他方で、歴史は敗者の「瓦礫の積み重ね」であるとベンヤミンは言う。そして、「形象」を通じて、ありえたかもしれない敗者の歴史をとらえ直し、未完結の過去を救済せよと言う。ベンヤミンのいう「形象」には、大文字の歴史によって埋没されてきた、真の「歴史」が内包していると考えてよい。そしてこの「歴史」こそが「物語」である。それは、個々人の、「世界との関係性の取り方」というところに関連が深いように思う。人は誰であれ、自分の生れてくる環境や、時代を選ぶことが出来ない。にもかかわらず、それらの時代や環境は、我々に、不条理な猛威や悲劇を投げかけて来る。そのことについては、たとえ南米の密林に生まれた先住民族にしても、戦時下に生まれたシリアの国民にしても共通することだろう。その中である時に、自分自身の人生を、どこかに預けてしまうこと。環境や時代と、自分との『あいだ』に、自分のこれからを委ねてしまうこと。そこから現実を紡いでいくこと。そこにこそ「物語」があるのではないかと思う。そしてそこでのみ、「いのち」が伝承されていく。

 

上記の①②の関連について、少し糸口が見えてきたかもしれない。

 


記憶をめぐって(2016/10/17)

 

ある者が、生命の停滞から流露に至ろうとするとき、そこには、様子を見守り、寄り添う他者が必要とされる。その他者に必要なのは、目の前にいる人間の抱える「傷」を、みずからの内に引き受ける覚悟だろうか。「傷」が現前され生命が流れる時、もはや二人の間に境はなくなる。想像力の領域でしか知覚し得ない、共時的な場所=今。その場所で、傷は共通の記憶となり、「歴史」の上に継承されることになるのだろうか。

 

 

「歴史」というのは、一個人や、メディア単体によっては、存在しえない。従って、大原治雄の写真は、写真それ自体においては、「歴史」はない。そこに「想像力」をめぐらせ、鑑賞する者がいて、ようやく彼の撮った「歴史」が可視化される。逆に言えば、人間から想像する能力がはく奪されてしまったら、大原の写真からは、「ここに映る人びとが歴史の上に存在した」という比類のない「史実」さえ消え失せてしまう。

 

 

 

個人の内部に蓄積され沈潜した記憶は、それ自体においては、この世界に実在していない。それを引き受ける他者がいることで、その記憶は「歴史」として、編まれていく。

 

 

書道を含む芸道において、継承されてきたのは、生命と言って良いだろう。個人の主観によってしか掴むことのできない、生命を携えて生きることのリアリティ、身体感覚(畢竟それは外界といかに関わるかということだ)、そうした不可視の「こと」を、継承してきたとみて違いない。

 

 

内田百閒のエッセイ長春香は、関東大震災前後のことについて書かれているはずなのに、読み終わって現前したのは、まぎれもなく「わたしが生きている今」であった。

 

 

サタジットレイの映画「大地のうた」においても、「わたしが生きている今」が、現前してくる、そういう瞬間が確かにあった。

あの映画が撮られてから、50年は過ぎているはずだ。

 

 

限定的で悲劇でもある「歴史」の最中にいきなり生まれ落とされた者が、その状況に押し流されながら、しかしなお自らの手で「歴史」を明るくしていく姿、それを「運命」というのだろうか。

 

 


歴史と永遠(2016/10/13)

 

以前記した通り、私は近江八幡で、多賀神社の元宮司「三浦重義」氏の書「寿無窮」を購入した。

家に持ち帰ってから、毎日飽きずにこの書を眺めている。眺めながら、私はこの書の何に惹かれ、そして何にひっかかりを覚えるのだろうと、答えの出るはずのない問いの中を、今も泳ぎ続けている。その間、ブラジルに移住した大原治雄の写真についての論考を進め、そこから書との関連を探るべく、前回は漢字の起源となる甲骨文について少し記したのだが、その方向からのアプローチは、やや行き詰まりの様相を呈しているのは否めない。

 

その中で、ふと思ったのは、どうやら大原の写真と、三浦氏の書に関連がありそうだということだ。まず私が大原の写真を初めて見た時に抱いた感想は、(そこに映る人々や物が)「歴史の上にいる」というものだ。それは決して、20世紀の前半に、日本からブラジルに集団移住した人々がといたのだという歴史上の客観的史実が、そこに記録されていることに感慨を抱いたわけではない。私にはその時、大原の撮った人々が、実際的に、どのような文書にも決して残すことが出来ない【歴史の上にいることの感覚】というものを証言しているように思えたのだ。

 

歴史という不可視の川の中を泳いでいる者が、すくっと水面に顔を覗かせている、そうした感覚を大原の写真は私に抱かせる。他方で、三浦氏の書については、「歴史上に、このような生き方をした人物が確かにいた」のだということに私は感動を覚える。「生き方」と書いたが、それは「歴史」に自らを挿入し、その重さと暗さを引き継いでなお、決然とこの世界に存立していた、

そうした生を選び、歩んできた重さというものが、節々に垣間見える。ここでもやはり歴史の上にいることの感覚が、紙面にありありと証言されていると言って良い。特に、それが読み取れるのは、「かすれ」の部分で、それを見ると、三浦氏の「線」が、

決して三浦氏によっては書かれていないのが明かで、三浦氏と「歴史」との共同によって刻まれてきたのだということが確認される。

 

両者に共通しているのは、「歴史の上にいることの感覚」がそのまま、「生命」という不可視の存在の証言を果たしているということだ。その意味で、大原の写真や、三浦氏の書は、この後世に「生命」の存在を知らしめる、そうした「メディアmedia」として機能している。また歴史という「相」においてのみ、「生命」は継承されていくのだろうということも同時に思う。

 

大原にせよ、三浦氏にせよ、「命」が「運ばれて」行く所、即ち「運命」に沿って、自らの人生を築いていったことにおそらく異論はない、無論、運命というのは、彼ら自身の意図を超えた、操作不可能なものであるが、間違いなくそれは「社会」や「歴史」に根を張っている。言い換えれば、「社会」や「歴史」が、大原や三浦氏の「運命」を希求し、方向づけていると言っても差支えないように思う。我々人間は、「社会」や「歴史」の受動者でしかありえない。しかし受動者であるはずの人間の活動によってしか、「社会」や「歴史」は刻まれていくことが出来ない。

 

三浦氏の書は、おそらく大正~昭和に書かれたものであることくらいしか、時代背景としてはわからない。しかもそこに書かれた文字も、「寿無窮」とあり、決してその時代を、そのまま反映するものでもない。だから、あくまでも三浦氏という、一個人の「世界」というものしか、そこには反映されないはずなのだが、そこには、人間が「歴史の上にいることの感覚」がありありと映し出されている。しかしそれは決して、私が大正時代~昭和に戻った感覚になるとか、その時代を懐かしんだり、想像したりできるという類のものではない。あくまでも、歴史の上にいるという感覚がするだけなのだ。

 

平成を生きている我々が生きる前には、昭和があり、大正があり、遡れば弥生時代や縄文時代があるということは、考古学や歴史学をはじめとするあらゆる学問が証明しているのだから、本来「歴史」というものは、直線的な時間軸の上を、持続的に伸びて行く人間の活動や運動の堆積であるだ。

 

 

しかし、どうも、三浦氏の書や、大原の写真から感じる「歴史の上にいるという感覚」は、ある「一点」に触れているという、ただそれだけのことから、感じるものであるような気がしてしまう。つまり、時代的にはおそらく異なっているであろう、大原の写真と、三浦氏の書から感得される「歴史」というのが、同じ「一点」つまり、「一つの場所」のことを指しているに過ぎないのではないかということを私は述べたいのだ。

 

この「一点」のことを、人は「永遠」などと呼んだりするのだろうか。

 


甲骨文とミメーシス(2016/10/12)

 

 

書の起源である中国で、最古の漢字とされるのは殷の時代の甲骨文だと言われている。亀の甲羅や、馬の骨などに小刀で刻されたその文字郡の多くは、「占い」の記録だ。占いを実施したのは「貞人」という役職の人で、その占いの結果によって王室の動向(=政治)を決定した。甲骨を用いた占いは主に2つに分類される。

 

ひとつは、定期的なもの。癸(みずのと)の日に実施され、以後10日間の吉兆を問うもの。癸とは、十干(じっかん)の10番目のこと。十干は順に、、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸。殷では、十個の太陽が存在し、それが毎日交代で上り、十日で一巡りすると考えられ、十干はそのそれぞれの太陽の名前と言われている。

 

もうひとつは、不定期的なもので、豊作、開戦、異常気象の終わりを祈るものとされている。占いでは、定期的なものであれ、不定期的なものであれ、吉兆か凶兆かの二者択一で結果が出るが、凶兆が出た場合には、決行日を延期したり、生贄を増やすなどして、吉兆が出るまで占いが反復されたとのことである。

 

参考までに、占いの記録文には一定の型が存在したらしく、主には以下のようになるということだ。

 

「前辞」:いつ、占いが行われたかを記す(日付ト貞)

「命辞」:占う内容

「占辞」:王の判断

「験辞」:占いの結果

 

この占いという行為を「ミメーシス;模倣」という観点から捉えるならば、「貞人」という役職は、占いにおいて「天」を模倣していると言って良い。「天」を模倣することで、呪術的・霊的な交感関係を果たし、身体的に蓄積されたものを、甲骨文を用いて、現実世界に定着させた。

 

その意味で、「貞人」は、《「現実」と「神」》《「人間社会」と「霊的存在」》とを結ぶ「媒介者medium」であり、彼の身体に感得されたものを記録した甲骨文は「媒体media」であると言って良い。ベンヤミンは「模倣;ミメーシス」の能力が、古代人の持っていた生活規定的な力であることに触れているが、ここで重要なのは、このmediaによって、国の運営(=現実、生活世界)が動かされていたことだ。

 

これは殷の時代の人びとが、自らの日常世界を、自らが操作できる範疇に収めていなかったことを暗示している。「これまで」と「これから」を繋いでいく際に、全く外部の存在に預けていることを意味している。

 

こうした「外部の存在」を「模倣」し、自らの生を委ねていくという殷代に見られた日常世界の構成様式を、ブラジルへの移民者である写真家・大原治雄はそのまま踏襲している。(外部の存在=歴史)。

 

だからこそ、大原にはあのような「歴史的」な写真が撮れた。では、甲骨文や大原治雄の写真のような「メディアmedia」を、我々は現代においてどのように制作していけば良いだろうか。その答えが出るのは、今しばらく時間がかかりそうな印象がある。壮大な課題だ。


メディアとアート(2016/10/11)

 

このところ、歴史的に「書」は何をしてきたのだろうかということが気になっている。これを自分なりに整理していかぬことには、自分が制作していきたい作品の方向性や、また役割といったものも、ずっと闇に佇んでいるだけで、一向に展開されてこない。

 

まず、私自身が最近「アート」と言われて想起するのは「メディア」という語句で、高地からブラジルに移民し、農業を営みながらブラジルの自然や家族を収めた大原治雄の写真は、「アート」と「メディア」の関連について、大きな示唆を与えるものであるような気がする。

 

大原治雄は、1927年、17歳の時に、日系移民として高知県からブラジルに渡った。日本からブラジルへの最初の移民船が出航したのは1908年と言われているので、その約20年後に大原は家族でブラジルへと集団移住したことになる。元々、ブラジルはアフリカ大陸から送られてくる奴隷をコーヒー園を主とした農業労働者として重用していたが、内外からの批判を受けて、1888年に奴隷制度を廃止し、農業労働者の不足という事態を受けてヨーロッパ諸国からの移民受け入れを実施した。しかし、奴隷と変らぬ住環境や労働環境の劣悪さに対して、イタリア人の移民が不満を抱き、ヨーロッパからの移民政策は中止となる。

 

これに伴い、1892年に、ブラジル政府は日本移民の受け入れを表明し、農業従事者の確保を目論んだ。ただし、日本とブラジルに正式な外交がなかったことや、イタリア人移民の事案などを理由とし、日本の外務省は、移民の送り出しをしばらくは躊躇している。ところが、1900年に、それまで多くの日本人移民を受け入れていたアメリカで、日本人差別を基にした排斥運動の高まりがあり、日本政府はアメリカへの移民を制限した。加えて1904年の日露戦争を受けて、日本経済が混乱し、農村の困窮の高まりがピークを迎えたのを機に、日本政府はブラジルへの移民実施を決める。「家族単位での移民」という難しい条件にも関わらず、最終的には781人の移民が、第一回の移民として契約し、ブラジルに渡った。なお、内325人が沖縄出身であったという事実もここには付け加えておきたい。 

 

当初、ブラジルへの移民を斡旋した「皇国殖民会社」は、移民募集の際、ブラジルでの高待遇・高賃金を謳っていたため、日本からの移民者は数年間の労働でお金をためて、帰国するつもりであったが、実際には、先のイタリア人と同様に、奴隷同等扱いをされたという。そのため、貯金どころではなく借金が増え、とても帰国などは出来なかった。日系移民の間で移民計画を「棄民」(日本国に棄てられた民)と揶揄する声も出たという。夜逃げが多数発生し、近隣州や隣国へと渡る者もあらわれた。

 

農園から逃亡した多くの日本人移民は、日本人移民同士で資金を出し合い共同で農地を取得、集団入植地や農業組合を形成した。

多くの日本人移民が自作農として独立、成功し、綿や胡椒、商店や工場、医師を開業する者も現れたと言う。その後、一時は、ブラジルへの移民を制限する動きがあったものの、第一次世界大戦の勃発を機に、再びブラジルへの移民は増加し、日本政府もこれを推奨した。大原治雄がブラジルに移った1927年には、三菱財閥が「東山農場」を始まるなど、小規模ながら、日本企業の進出も始まった。

 

戦時下、大原自身が、出身の高知でどのような生活を送っていたのかということは判りようがないし、またどのような経緯で移住を決断したのかといったことについても正確な情報を得ることは難しい。またブラジルへの移住後についても、移住して数年は「農業労働者」として従事し、その後、未開拓の地パラナ州ロンドリーナ(リオデジャネイロから約800キロ)に最初の開拓者の一人として入植、1951年にロンドリーナ市街地に生活を移し、農業経営をしながら国内外の写真サロンに参加をしていたという概略程度しか知る事ができない。

 

 

  

しかし一つ言えることは、大原治雄の人生が、社会の「動き」に翻弄されていたということである。 仮に彼が現代に生まれ落ちていたとしたら、彼の人生は、ブラジルとは全く縁遠いものとなっていたかもしれない。誰であれ、自分自身の境遇を選んで生れて来ることなど出来ない。大原の場合には、世界規模の「戦時下」、その余波として押し寄せる経済的・物質的困窮が、避け様もない「現実」として、目の前に拡がっていた。この「現実」は、彼一個人の努力や処方によっては如何ともしがたく、その状況を彼が望むか・望まないかという選択など問われることすらない。

 

いやしかし考えて見れば、人間として生まれ落ち、この世界に生を築き上げていくことを、自ら選んで生まれてくる者が今まであっただろうか。気付いた時には、自分の生涯は始められており、父母はすでに目の前にいて、自らを取り巻く環境、社会状況は勝手に決められていた。 大原がブラジルに移り住んだことにも、彼が生まれ落ちる前から既に決められていた「現実」や「時代背景」が要因として大きく働いている。見方によっては、受動的、もう少し言えば、受苦的な行為であったと見ることも出来るかもしれない。

 

 

と、ここまで大原の人生を取り巻く「暗さ」について書き記している間に浮かび上がってくるのは、それとは対照的に、いや、むしろそんな「暗さ」など微塵も感じさせない程に「明るい」大原の写真群である。観る者に「この《世界》に住んでみたい」と思わせてしまう、そういう「光」が確かにそこには映っている。大原の撮ったのは、決して「ブラジルに生きる日本人」などではなかったのだ。彼は《世界》を撮っていたのである。「運命」に翻弄され、ややもすれば、人生の悲哀に屈折しそうになる、そうした過酷な状況に生まれ落ち、ブラジルで生きていくことを「決意」せざるをえなかった者達が、その状況を自ら「明るい」ものへと変革していく姿、その姿の内にあるものこそを、私は《世界》と呼んでいたい。そして、その《世界》においてのみ、人は「歴史」を紡いでいくことが出来る。

 

その意味で、「歴史」とは、運命を引き受ける決意をしたものだけが、内部で感得することができる特異な「感覚」であると言ってよいであろう。 さて、ようやく「アート」と「メディア」の関連に話を移していきたい。大原の写真をひとつの「メディア」として捉えれば、彼の写真が果たしているのは、決して「歴史的史実」の宣告などではなかった。それは「歴史の上にいることのリアリティ」を我々に差し出しているのである。一個人が歴史によって動かされ、歴史が一個人によって動かされる、そうした双方向の運動の「軌跡」が、そこには映し出されている。従って、大原の写真は、大原治雄自身による極めて「個人的」な記録でありながら、そこには彼が存在する以前の、膨大な時間や無数の人々の物語が内包されている、極めて「社会的」な記録であると言えるだろう。

 

そしてそうした「個人的private」でありながら、なお「社会的public」でもあるところにおいてのみ、歴史上の「今」というものが、暴露される。大原の写真は「歴史上の過点」を、記録し、保存し、感覚させる、そうしたメディアとしての機能を有していると言えるだろう。それは同時にまた、「生命の伝達」という機能をも担うのだということを、同時にここに残しておきたい。

 


寿無窮(2016/10/9)

 

初めて、書を購入した。

 

近江八幡を巡っている中で、偶然見つけたリサイクルショップ、そこに足を踏み入れて、すぐに目に飛び込んできた。「寿無窮」と三字、字体は行書。大きさは幅6尺、高さ1.5尺程度、状態は極めて良い。大正~昭和初期くらいのものだろうか。似ているものといえば、洋画家の熊谷守一の書が思い起こされるが、守一の字が持つ奥行に、さらに格調と峻厳さを加えたところがあり、他に比類がない。一目で惚れてしまい、近くに行って、しばらく眺めた後に、お金の持ち合わせもなかったが、勢いそのまま「おいくらですが」とお店の方に聞いた。

 

一部に禅僧の書などが名高い骨董品屋で扱われている以外には、これほどに格調の高い書が、売りに出されていることを私はみたことがなかったので、「100000円」は下らないだろうと高を括っていたのだが、なんと返ってきた答えは「15000円」だった。

あまりの安さにびっくりしてしまい、試しに「もう少し引いて頂くことは出来ますか?」と聞くと、「それじゃあ13000円」と返ってくる。落款には、「多賀神社 重義書」、印には「多賀宮司」とあったので、かの多賀神社の宮司さんの字であることは判別出来た。勿論私は彼のことは知らない。書道史や骨董の世界でも、全く触れられていないことくらいは容易に想像ができる。

 

5分ほど悩んだ後、コンビニでお金をひき出してきて、購入した。その時には丁度軽バンに乗っていたので、容易に持ち帰りが出来たことも大きい。近江八幡を訪れたのは、そもそもが、建築家の藤森照信氏の設計したラコリーナを見るためであったし、リサイクルショップに立ち寄ったのも、現在改築中の家に合う古家具などはないものかという動機だったので、全く偶然の「出会い」に、ただただ人生の不可思議を想うばかりであった。近江八幡からの帰り道では、信号で止まるたびに、車の後部座席を振り返っては書を眺め、偉大な作品を手にしたことへの悦びに浸っていた。

 

しかしである。

 

いざ家に持ち帰り、部屋に書を立て掛けてみると、その字の峻厳さに、妙に緊張してしまう。部屋全体に、ピリッとした空気が張り詰めて、どういうわけか、正座をしてしか鑑賞することが出来ない。これほどの書が自分の手元に廻ってきたことに対して、どこか責任というか、矜持のようなものを持つことを迫られているような気さえしてしまう。

 

どうして私はあの時、あの場所で、この書に巡り合い、これを手に入れてしまったのだろうか、この巡り合いの不可思議を紐解いていくには、もう少し時間がかかりそうだ。じっくりと、正座をしながら、その書と向かい合っていきたい。

 


ミメーシスと書(2016/10/6)

 

IAMASの図書館で偶然手にしたのは、昭和を代表する書家の井上有一の展覧会カタログであった。これは2016年の初めに金沢21世紀美術館で開催された井上有一の展示に合わせて制作されたもので、展覧会のことはずっと気になってはいたものの、なかなかタイミングが合わず、ようやく空いた日には、京都で開催されていた池大雅展に行くことを選んでしまったので、結局行くことができなかった。

 

有一の書に関しては、アメリカの抽象表現主義との接点から、美術史上で触れられることが多く、かのハーバード・リードの書籍などでも紹介されている。またマーケット的にも大変に人気があるため、現代では「井上有一」であれば無条件的に評価されている所があり、常々違和感をもってきた。改めて冷静に、彼が「書」というスタイルを用いて、何を行ってきたのかということについては、整理しなくてはならないと思ってきた。

 

私自身は、有一の作品に接したのは、わずかの機会であるのだが、箱根で鑑賞した一字書「杉」などは、いくら見ていても飽きないものだった。部分的にはどこか倒れそうで、崩壊してしまいそうでありながら、しかしなお全体としての統合性をなんとか保とうとしている、そういう「杉」の姿が、見事に紙面に反映さていて、それはおそらくその時の有一自身の状況を間接的に語っているのだろうと直観した。その意味で、一字書「杉」は明かな「詩作品」であったように思う。

 

さて、カタログの話に戻すと、そこに並べられた作品群については、おそらくはどこかのタイミングで、すでに別の書籍を通じて確認してきたものばかりだったので、それほどに目新しさというものは感じなかったのだけれも、カタログの後半に収められた、東京外国語大学教授の今福龍太氏による評論「ミメーシスとしての書-井上有一のおける模倣と交感」は、大変に刺激的で、

 

私が有一の「杉」を見た時に感じたこと、また自分自身がこれから「書」という「スタイル」を以て、どのように制作していきたいか、何がしたいのかという所に、大変な示唆を与えるものであった。今福氏の記述の概要を以下に記してみたい。

 

太初の原生林に開拓者として人間が移り込み、そこで文化を形成していくに際して、彼らがはじめにしたことは、野生のテリトリーとの精神的な関係性を構築することだった。日本の東北で言えば、「鹿踊り」という鹿の所作を真似した踊りがあるように、

そうした場合には、ほぼ例外なく、そこに住む野生動物の所作を模倣するような舞踏が生み出される。こうした自然(環境)の真似=模倣(ミメーシス)は、神羅万象とのあいだに呪術的・霊的な交感関係を築くことで達成されるが、そうした模倣の繰り返しによって構築される人類の文化の最終的帰結には「言語」があると今福氏は述べる。

 

文字はそのような肉体性の帰結であり、人間の模倣の能力を結晶化させた小宇宙にほかならないのである。

模倣の能力を通じて内臓を読み、舞踏を読んできた人間が、ついに読むことの最終的な帰結として文字を発明したのだ、と言い換えてもいい。(今福龍太「ミメーシスとしての書-井上有一のおける模倣と交感)

 

井上有一が生前に残した作品は、大半が一字書であるが、そうした一字との対峙について、今福氏は、

 

一文字の内包する宇宙をまるごと受け止め、その宇宙そのものを紙の上に転写し続けることで、ついには文字の示す言語的記号性や意味の世界からは自立した、物質的なミメーシス的な造形へと突き進んでいこうとした有一の特異な方法論であった。

 

としている。近代においては、行政上の書類などを見ればわかるように、言語というのは文字記号として扱われるようになってしまっている。つまり、我々の日常に使っている言語というのは、そのほとんどが、先の「模倣(舞踏」→「言語」→「文字」という身体的交感から派生したものではなく、ある単一の意味を伝達するための視覚的な「記号」に置き換わってしまった。そして言うまでもなく、その余波は、「書道」の世界にも広がっている。一言で言えば、近代の書には、肉体性が書けた文字が、羅列されているだけで、いわゆる切ったら「血」が噴き出て来るようなものがほとんどない。

 

今福氏は、そうした近代の「言語」的な危機に対して、有一は真っ向から抗うことをしてきたのではないか、 文字の模倣的な出自へと遡り、交感に際しての身体的な混沌を、紙の上によみがえらせる、そうしたことに格闘してきたのではないかという論を展開している。 勿論、自然物との交感という意味でのミメーシスという観点のみから、書道史上の全ての作品を説明してしまうことは出来ないのだが、この方向から、史実の筆記、経典の書写といった「書」が行ってきた行為を紐解いていくことは必要である気がしている。

 


山と水(2016/10/5)

 

高村光太郎の詩に以下のようなものがあって、改めて読んでみると、これはすごいものだなぁということを実感している。

 

〇 山にゆきて 何をしてくる 山にゆきて みしみし歩き 水のんでくる 〇

 

この詩を詠んだのが、いつくらいなのかということが分からないし、おそらくは晩年の山荘での独居生活の頃のことのように推測するが、とりたてて、調べようという気もおきないので実際的にそれがどんな山で、どこの山をさしているのかということは判然としない。判然としないが、そのことは、それほどには重要ではないことのような気がする。

 

この山というのは、ひとつのメタファーに過ぎない。光太郎がここで「山」という言葉の背後に忍ばせたのは、人生の「未知性」であるように思う。山は、下から眺めているだけでは、その実態がどのようなものであって、また、それを登るのにはどれほどの困難がつきまとうかということなど分かりようがない。だから恐い。恐いからという理由をつけて、避けることは出来る、しかしそれでは、人生は進んで行かない。「詩とは不可避なり」という至言をことあるごとに書に残した光太郎は、そのことに誰よりも自覚的であった。だからこそ、光太郎は、「みしみし」という表記をここで採用したのだろう。

 

足取りが、決して平易ではないことと、それでも一歩一歩を確実に推し進めていこうとする、そうした「暗さ」と「明るさ」が並存する歩みの「厚み」が、ここには確かに描かれている。その歩みの中で、ようやく人は「水」を飲むことができる。「水」とは「生命」のことだ。

 

こうしてみると、光太郎の詩には、人生を、真正面から引き受け、それと格闘していこうとする「決意性」がみてとれる。こういうものこそを、本来は「詩」と呼ぶのだということを、改めて心に留めておきたい。


ノーベル医学物理学賞受賞の大隈良典のエピソードから(2016/10/5)

 

2016年10月4日付けの朝日新聞朝刊によると、ノーベル医学物理学賞を受賞された大隈良典氏は、「オートファジー」という、物理の領域では、当初見向きもされなかったテーマを研究し続けて、今回の受賞に至った。氏の研究への態度は「自分が不思議だと思ったことに集中して」というもので、ノーベル賞を受賞してなお、「最初に思った疑問が、今だ広がっている」と話されている

 

私は物理の世界には全く疎いので詳しいことは一切判らないのだけれど、「予算」や「研究費」が下り易い研究テーマと、そうでないものがあって、冒頭にも述べた点からも省察される通り、氏のテーマは後者にあたる。予算が下りにくいのに加えて、周りから見向きもされないのだから、悲壮な下積みと努力の甲斐あって、、、というような方向に話は持っていかれがちであるが、「鈍感にいられたのがよかったと思っています。これからどうなるのかを気にしていると、サイエンスはなかなかできない」と言ってのけるあたりは、研究への「悦び」を何よりも優先にされてきた「子どもごころ」というものを垣間見せてもらえたような気がして、彼にとっては、ノーベル賞をとろうがとらまいが、実はそれほど大きな違いはなかったのではないかなぁという気すらしてしまう。

 

翻って、自分自身の話に戻すと、書の展覧会への出品をやめたのが24歳の時で、書の本質が何なのか考えることもせず、古典とどのように対峙していいのか明確な基準が自分に確立されていないのに、「展覧会で入選するための作品制作」にまい進する自分自身に嫌気がさしていた。とはいえ、出品をやめたところで、どのように自分を運んでいけば、「書の本質」の薫る作品に近づいていけるのかということは、誰も教えてはくれないし、どの書籍にも書いてはいなかったので、自分で考えるしかなかった。もちろん今も判っていない。

 

けれども、色々と自分なりに書の外側に身を置いて、その時々に、自分の気になる事、解明せねばとても気持ちが悪くてやり過ごせないことを、ひとつひとつ、片付けていくうちに、なんとなくではあるが、「書の本質」というのは、もしかしたらこういうところにあるのではないかという、おおよその見当だけはついてきた。けれど、結局は、自分だけでやっているだけのことだし、外的には数回の個展をして、少なからずの客さんに見て頂いたという実績しかないので、「とは言え、やっぱり自分はただ勘違いしているだけはないか」と、通ってきた道を疑いたくなることもあるのだけれど、それでも、ここまでの歩みには、何者にも代えがたい「発見の喜び」や「手ごたえ」があったのは事実なので、これはもう、いけるところまでいくしかないと、腹を括って邁進する決意だけはしているつもりだ。

 

そういった中で、大隈氏のように、心から、自分が気になること、不思議に思うことにまい進し、

例え、そこに金銭的な余力や外部からの関心が得られなくとも、牛のようにのしのしと、歩く悦びを携えて生きてこられた研究者がいらっしゃるという事実には、自分自身、大変に勇気づけられるものがあった。

 

ぐるっと、「書の外側」から、書を眺め、ある程度には、進んで行く方向性や、イメージ、書の本質が宿る条件などが整理された今、とにかく夢中になって、「書の内側」にもう一度ぐっと入り込んで、日々の練習と作品制作に打ち込んでいきたいと思う。そこに自分だけが感じ取れる「悦び」があれば、それ以上には何も望まない、そういう内的な強度を、自分自身も持っていたいと思う。

 

今は、書の練習が愉しい。

 

 


流れてきたことば(2016/10/4)

 

自分に意識を向けない訓練をする必要性を感じる。目の前の対象、行為、風景、人物、歴史、物語、場に埋没してしまわないと、

どうにも苦しくて仕方がない。

 

 

自分の中から「ことば」が出てこない時というのが確かにある。鬱々としてして、長い時間を無為に過ごしてしまう時というのがある。そうした時を堆積させてしまう原因を探っていくと、行き着く所には「自意識」というものがあるのではないかと思う。「自我の殻」に自分を留めておこうとしている限り、「ことば」というのものは、いつまで待っても、浮上してこないようだ。

これは創作意欲というものに関しても同様であるように思う。それらは「生命」の働きであるので、「自我の殻」を脱いだ時にだけ、どこかから贈与されるものなのだろうか。 ことばや創作意欲が湧かないからと言って、今の自分に意識を向けても、そこには何もない。自意識が生命を滞らせるだけなので、いつでも「あいだ」に意識を向けていたい。

 

 

ことばにすることは、世界と交渉すること、世界と交渉しないことは、自分が存在していないということ。出来うる限りに、ことばにすること。あらゆる違和や感慨を、ことばにすること。

 

 

詩や作品は確かに流れてくるものだけれど、こちらが好き勝手やっていて、流れてくるというものではない。そういう怠惰な態度を「自然」とか「無意識」という言葉で片付けていた。詩や作品が流れて来るのは、生命が滞っていない時だけで、意識的にその状態や構えに自分を置いておく、そういう修練をすること。

 

 

人から求められることを自分の行動規範にしてはならない。自分が独りにおいても充足した生活を送りながら、そこに他者からの呼びかけがあることが適切であるように思う。

 

 

今、ここに集中し、埋没し、溶解してしまうこと。充実は未来にはない。今ここで、どう現実と向き合うのかというところにしかない。

 

 

時間を忘れる時間を持つ、集中力と精神と態度を、習得したい。まったく修練が足りない。

 

 

建築家の藤森照信氏の著書を何冊か読んでいるのだが、氏が建築の領域でされている仕事は、自分が「現代」において、「書」という形式を用いて、どのように制作をしていくかという所についての大変な示唆を与えてくださる。

 

元々、建築史家であった藤森氏の作品に対して、建築界からは、「藤森のやっていることはよくわからない」といわれたということだ。また、一方で、作品について共感を示してくれる建築家からも、「見たこともないのに懐かしい」「無国籍の民家」などといったコメントが聞かれ、それらは既存の建築の文脈からは外れており、しばらくは建築という壇上で批評されることが出来なかった。しかし藤森氏自身は、自らの作る建築について、「インターナショナルなバナキュラー」という明確な目標を掲げている。資本主義によって安定的に供給させるようになった「工業製品」というものを使い、人類がこれまでに各地域で積み重ねてきた形式を一切捨てて、もう一度、ゼロから「バナキュラー」なものを再構築するというビジョン。仮にそのビジョンが、既存の「現代建築」の文脈から外れ、問題にされなかったとしても、遠い眼で見れば、それは「現代建築」というひとつの「袋小路」に対して、大きな風穴をあけ、光を照らすのではないかということが容易に想像される。

 

他方で、書の世界に目を向ければ、もうやるべきことがないのではないかというくらいに、煮詰まってきている現状がある。おそらく今後、書壇という「制度」の中からは、今後の「書」の方向性を示してくれる作品というのは出てこないだろう。そういった中で、「制度」からあえてはずれる道を選んだ自分自身に出来ることは何なのかということを、改めて考え、製作の糧としていきたい。


書展「在る部屋(STENPORT)」を終えて(2016/9/21)

 

岐阜市STENPORTでの個展を終えて感じたことを整理してみたい。

 

1、アートというのは存在様態を指す

作品というのは、鑑賞者がいて、はじめて「成立」し、「存在」するものなのだと強く思った。つまり作品が単独であるだけでは、その存在が規定されることはない。誰かや何かがそこに関わってくることで、作品の「存在」が浮き彫りにされていく。こう記していくと、これはもう「作品」という領域のみの話ではないような気がする。自分自身の「存在」というのも、結局は自己規定出来るものではない。アートというのはそうした「在り方」を指すのであり、作品においては「様態」としてそれを有しているかという点が重要になるのだろう。

 

 

2、「世界」のために「成る」アート

社会の為、人のため、地域のため、、、そうした大義で私は製作が出来ない。あくまで作品は自分自身が生きるために制作するものだと思う。しかし、そうして制作された作品が、鑑賞者ひとりひとりの「世界」のために「成る」こともあるのだと感じることが出来た。

 

 

3、アートが生む「場」

これは、上記の2とも関係すると思うが、アートというのは作品に限らず、相互作用的に生まれる「場」のことを指すのだということも実感した。もう少し言えば、そうした場に置いては、「必然的な偶然」が生じる。つまり「ポエジー」が誘発されるのだろう。

 


入力と出力(2016/8/22)

 

単線的に、Aを入力したら、Bが手に入るという様式が、現代においては顕著で、その要因としては、金銭を媒介にした等価交換が生活のほぼすべての領域を覆っているところが大きいように思う。

 

書においては、練習をしたら(A)、技能が上がる(B)というのは間違いではない。しかし、「良い書作品」と対峙した時に自分が惹きつけられる点は、もっと重層的なもので、決して「技能」という言葉で片付けられるものではない。練習をすれば(A)技能は上がる(B)、これは書をよくする(C)ことを目指すにあたっては、効率的で、他のどのような方法にもまして効果的で、これほどの近道などないのだと、そう短絡的には思ってしまう。

 

しかし、練習をしたら(A)、書が良くなる(C)わけではないのだ。書が良くなる(C)には、どうしたら良いかというのは、結局のところ、誰もわかっていないし、解明できない領域のものなのではないかと思う。そして、書を志す人の多くが本来望むのは、技能が上がる(B)ことではなくて、書が良くなる(C)ことにあると思う。

 

そもそも、Bを得るために、Aをすると考えて、行動するのは、「未来の自分」が「今の自分」の範疇に留まってしまっている。

言い換えれば、今の自分で想像できる範囲でしか、将来の自分を見据えていないということだ。「一生自分は変わらない」ということを、前提に置いた態度だ。これは、生命体としては、非常に危ういように思う。

 

では、何をよりどころにすれば良いのか、そう問うた時、私は「よろこび」という語句が非常に大切になってくるような気がする。ではどういう時に人は「よろこび」を感じるだろうか、それは自分の拡がっていく時なのではないだろうか。そして、往々にして、そういうのを感じるときというのは、「意味」とか「目的」がない時であるように思う。これが何の役に立つのか、何のためになるのかということを、一切顧慮せずに、行為に埋没する時、そこに自分の広がりと、そして「よろこび」があるのではないだろうか。それがBになるからAをやっている時には、おそらくそういう感慨は発生し得ない。そこには「自分」がいるからだ。

 

職業や、将来の到達点、私で言えば、書を「良くする」ということに、決して疎外されてはならない。書を「良くする」ことばかりに目をやると、A→Bとしか、人生を見なくなる。その時の「自分」で判断して、書を良くするために必要に見えることしかやらなくなる。意味のないことをしなくなる、そうすると、つまり自分が変わらない。自分が変わらないと、おそらく書も「良く」ならない。そうして、本当に何もしなくなって、ただ生きているのが苦痛になる。

 

意味のあることをしようとするんじゃなくて、意味がなくても「よろこび」があること、またそれを感じ取れるように自分いつでも「流体」にしておくこと、そういうことに注力したい。

 


制作の際に(2016/8/2)

 

アートというのは、「自らを造っていくこと」だと思っています。私の場合には、その技法として「ことば」というものがあって、

自らを脱ぎ、新たな「他者」へと更新する際に、「詩」や「文章」の執筆などが必要とされます。ですので、「詩」や「文章」は、それが執筆された時点において、本来的な役割(=自らを造っていくこと)から見れば、それらの責務は既にそこで果たされたと見て良いのだろうと認識していました。

 

他方で、そのように日常の中で蓄積された「詩」や「文章」を、私は書作品の題材として使用し、制作をします。これまでは、そうした行為は「演奏」であり、逆に「詩」や「文章」を書く行為は作曲であると認識していました。しかし、今回の制作を通じて確認されたのは、上記の認識を固定化することの危うさです。

 

なぜなら、今回の書の制作を通じて、明かに私は変わったからです。より仔細に述べるのならば、これまでの、「わたし」と「世界」との関係性が、ぐっと更新されました。これは、実生活の上で、相当に実感されます。これは一体どういうことなのでしょうか。

 

ここで思い出すのは、昨年に出版した「詩と共生」の編集作業です。「詩と共生」に掲載された詩や文章自体は、編集に入る前に、既に書かれたものであり、決して「詩と共生」を出版するからという理由で執筆したものではありません。しかしそうした詩や文章をまとめ、編集をし、出版する前と後で、明らかにわたしと「世界」との関係性は変わりました。他者や社会に捧げる(出版)という行為が、何かしら、私を変化させ、更新させたということです。つまり、「詩と共生」の出版という行為自体が、「アート」であったと言わざるをえないように思います。

 

確かに日常的に、文章や詩を執筆することは「自らを造っていくこと」なのだけれども、それを何かしらの方法(書、出版など)でまとめ、「社会」や「他者」に捧げる、もっと言えば曝け出す、そのこと自体も、「アート」なのではないかということです。

いやもしかすると、そうした「社会」や「他者」に捧げることこそが、「アート」なのであって、その過程で書かれる「詩」や「文章」は、あくまで「アート」の過程でしかないのかもしれません。

 

 

 

外的な圧力が加わることで、自分が向き合うことを避けていた内面と向き合わなければならなくなるような、そんな「不意打ち」というものが人生には幾つも用意されているように思います。そこで、「わたし」は強く「眼差される」。眼差しを向けてくるのは、実際的な他者かもしれないし、社会的な事件かもしれません。そこで、それまで「私」が見ていた「世界」は崩壊する。そうして、誰かや何かが眼差しを向ける「わたし」に、今の「私」が追い付いた時、そこにある感覚を「リアリティ」と呼ぶのではないでしょうか。

 

「現実」というものは、外界のどこかにあるのではない、かと言って内界にあるのではない、「外界」と「内界」が一致して動いているその地点において、間主観的に掴めるものなのではないでしょうか。芸術を志す人間は、幻想や虚構に生きてはならないと思います。世界と交渉することは、「現実」においてしか出来るはずがないのだから。芸術は逃避でも幻想でもない、圧倒的に「現実」を直視するための「非現実」だと私は思うのです。

 

 


長春香(2016/7/27)

 

良い随筆に触れることなどあると、ただそれだけで「ああ、私は生きていて良いのだ」と、少しの間、えも言われぬ生気で体が充たされる。内田百聞の「長春香」と出会った時などは、まさにそのような体験であった。

 

「長春香」には、かつて、内田百聞の元へ独逸語を学びにきていた長野初という女性に関する記憶が記されている。長野は関東大震災で命を失くしており、その十二年後に、内田が当時を回想する形でそれは書かれた。随筆の中では、長野との間に交わされた会話はほとんど描かれておらず、内田自身、長野をどのように考えていたかということは、彼女がドイツ語の習熟に秀でた生徒だったという事実以外にはほとんど描かれていない。その上、長野との離別から十余年を経過していることもあり、内田自身の記憶はひどく曖昧で、出来事の前後関係なども整理されていない。

 

しかし、だからと言って良いのか、私には、長野初という人物のイメージが手に取るように伝わってきた。愛弟子として、どれほど内田が長野のことを可愛がり、愛情を持って接してきたかということがありありと伝わってきた。確かに長野初という人間が、この世に生を受けて、この世界と交わり、一つの生涯を全うした、その事実の比類さが実感された。

 

そして最も興味深いのは、「長春香」を何度も繰り返し読んでいると、ある不可思議な感覚が迫ってくることだ。

 

内田と長野が交友を持っていた「相」の上に、今の自分がいる

 

二人の関わりが紡いだ「長春香」という随筆が、今私が存在することとの連関を強く実感させる。この現象をどのように説明すれば良いのだろうか。今の私にはわからない。

 


断片(2016/7/25)

 

非現実というのは、空想の世界に逃避するということではなくて、現実での直立を望むがために、一度、異世界に捉えられるということだ。現実を直視する気概を持つ者にしか、非現実的な世界との邂逅というのはないのではないかと思う。

 

 

自分内に動力がない時には、自分を止めることだ。違和に身を置いて、判断をやめること、他者にそのままに身体を預けること。

 

 

分からないということを認め、肯定することだ。そして、それをほんとうに分かりたいのであれば、分かるようになるにはどうすれば良いのかを問い、誠実に努力をすれば良い。分からないことを、分からないと言い続けているだけでは、決してわかるようにはならない。 

 

 

自分が言葉を使用し、あるがままに駆使するのではなくて、自分が構築してきた世界にはまるでなかったコトバがどこかから押し寄せてきて、自らの世界が引き裂かれてしまう時がある。コトバによって自らが押し出される時というものがある。

 

cf:

自分が自分のことばを話すというより、ことばの世界に自分が引き入れられ、そういう状態のなかでことばが自分のなかをくぐりぬけていく、といった言語経験は、受動的な言語経験と名づけることができるけれども、しかしそれは、ことばにたいする無為の態度とはまったくちがったもので、ことばのはげしいぶつかりあいのなかでこそかえって強く経験される(長谷川宏『ことばへの道』pp191-192)

 

 

私が興味があるのは、あくまで「詩」であって、文芸の領域に収まる詩作品ではないのだと思う。

 


創作(2016/6/22)

 

 

創作において必要なのは、「無駄」をすること、徹底的に無駄をすることの先にしか展開はない。

 

 

書という芸術を、皮相的に捉えれば、誌面には「文字」が書かれているわけですが、良い書というのは、この「文字」が浮上してくる「瞬間」というものを定着させたもののように思います。つまり、そこに書かれているのは、「文字」でありながら、「文字」ではないわけです。例えば「運命」という文字が書かれていたとして、「運命」という語句の持つ観念がそこにあるわけではないのです。では何が書かれているのでしょうか。私はそれは、流体的な、ある「状態」であるように思うのです。「生命」がある一定の方向へと流露していく、その動的なプロセスの顕現があるのではないでしょうか。その流露において、人間は文字や言葉を必要とした。そこに書という芸術の真意もあるように思います。

 

 

良い書は「白」が強く語っています。主体が書く部分は、言うまでもなく「黒」ですが、良い書においては、その「黒」が書かれていない部分(=白)の、「語り」が大きいように思うのです。

 

 

はじめから書けるとわかっていれば、創作などしません。書けるかわからないから、するのです。そのようなところにしか「創造」はない。そして、そうした「創造」の場においては、ひどく難破することもあるわけですが、ただひとつ羅針盤があるとすれば、それはとりもなおさず「手を動かすこと」から浮上してくるのではないでしょうか。「手を動かして」いる中で、おそらくある瞬間から「手が動かされる」ようになっていく感覚が今回の創作にはあった。その「光」というのは、偶発的に見えてくるものではありますが、もしかするとそれが必然性というものなのかもしれません。

 


備忘(2016/6/15)

 

十八歳くらいのものすごいまじめな少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で四十歳の慰安婦を抱いて、わずか一時間でも慰めてもらう。そのことにすごく感謝している。そういうことは実際にあったんです。この一時間のもっている意味は大きい。私はそれを愛だと思う。私が不良少年出身だから、そう考えるということもあるでしょう。でも、私はここを一歩もゆずりたくない。(鶴見俊輔『期待と回想』)

 

上に引用した鶴見俊輔の記述を読むと、私は映画「風立ちぬ」の最後の場面で、死んだ菜穂子が次郎に繰り返し発した「生きて」という言葉が想起される。どうしてだろう。

 

 

南さんの口からは、「受け身」と「多様」という言葉がくりかえしこぼれてくる。どちらも固定観念から感覚をほどいていくという文脈で出てくる。身を他人にあずけることで決壊する瞬間、類型のなかで、つまり他人との比較のなかでじぶんをとらえることを止める瞬間、そういう次元に誘導するために動員されるのが、このひとの言葉と手の技なのだ。(鷲田清一『弱さの力』)

 

ひとの魅力というのは、そうかんたんにまとまらないということにこそあるというわけだろうか。あるいは、じぶんがそうでありたい、そうでなくてはならないとおもているのを、じぶんで裏切ってしまう、そこにこそひとの魅力があるとでもいいたけだ。(前掲書)

 

自分は自分で自分をしばりつけているし、他者に対しても同じことをしている。

 

 

「(生け花にあっては)なかなか言うことを聴いてくれないその相手を知り尽くす、ということがたいせつなんです。たとえば蓮のきまじめな姿に接して、花をくすぐる。すると花はいやいやをする。花びらが危うくなる。そこで、自分なりに花を咲かす。自分が予想している以上に乱れている相手を、自分の中心に取り入れてしまうんです。それができるかできないかですよ、生け花は」(前掲書より、中川幸夫のことば)

 

相手を知り尽くすというのは、徹底的に付き合うことで、そのことでじぶん自身が乱れるということ(中略)じぶんを他者の存在にインヴォルヴすることで、逆にじぶんが「乱れて」しまうということ。これを他者本位と、留保付きで、呼んでもいい。(中略)他者のことを他者のほうから見るということにある。(前掲書)

 


3度目の「風立ちぬ」(2016/6/14)

 

純粋性というものは、現実世界とはまったく相容れない性質なのだろう。この現実世界において、純粋性を保つには、ことごとく矛盾しなければならない。しかし、それは現実世界の中で矛盾しているだけであって、「夢」や「魔の山」のような場所においては、何一つ矛盾とは見られない。現実世界において純粋であることは破滅だ。とてつもない哀しさに包まれた道だ。

 


傷と個(2016/6/13)

 

ハイデガーの言葉を簡易に解釈すれば、外界の推移と、主体の在り様に距離がある時には、それはいわゆる「ヒト」であり、他方で、外界の推移と、主体の内的な時間が一致する在り方を、「世界内存在」というのだろう。

 

ところで、外界の推移に、主体が追い付こうとする際、主体はこの世界における立脚点を一度放棄しなくてはならないわけであるが、どういうわけか、そのプロセスにおいて、主体は自らの中にある「歪み」や「傷」というものと深く関わるはめになる。自分自身のことを振り返ってみても、それまでの立脚点を放棄し、再び世界に立ち還ってくる際には、ことごとく、自分がこれまで見ることを避けて来た自分自身の記憶や内部と、深く対峙してきた。

 

これは不思議なことだ。

 

社会や外界に抑圧されない人間は、おそらくいない。主体がそれまでの立脚点を放棄することが必要になるのは、、その時点での主体の在り様が、社会や外界によって抑圧されているからだ。つまりその主体は、この世界において、自らの行為と存在を通じて、自分自身が何者であるのかということを、問いかけ、暴露するということができていない。ここまで書くと、いつも手が止まってしまう、つまるところ、私は何もわかっていないのだ。

 


断片(2016/6/12)

作品を制作する者は、制作することで再生をする。再生というと、ややもすればおおげさに聞こえるが、この世界の中で、自分の立脚する「地」を更新する。そうしたことが必要なのは、外界がいつでも流動し、留まることを知らないからだ。誰の意図でもなく、一つの摂理として、外界は時計の針を刻んでいく。その針の進行に、主体が歩調を合わせるということが必要なのだが、それは決して容易なことではない。

 

 

今目の前に出来たものが、芸術の名に値するものであるかということは、何によって、そして誰によって定義されるのだろうか。私にはわからない。

 

 

プライベートな作品、例えば映像の領域でいうセルフドキュメンタリーなどは、どのような条件を満たした時に、「大きな物語」に接続するのだろうか。誰しもが少なからず「時代/社会」による「被害」を受けているわけだが、逆に見ればそうした抑圧がない場所においては、‹個›というものはどれだけ待っても浮上してこないのではないかということを感じる。その意味で、「社会/時代」による心的・精神的な<被害>を直接的に受けた者が、その「傷」を「まなざす」ところ、そこにこそ、他の方法によっては決して捉えることの出来ない「大きな物語」の顕現があるのではないかと思うし、そうしたものを鑑賞者に垣間見させるものを、私はひとつ「アート」と呼んでいたい。「プライベート」な作品によってしか、時代や歴史を包括する「大きな物語」というものは暴露されないのではないだろうか。それはまた、「今」に生きる者が、歴史という俯瞰した場所から「今」を見つめ、また「今」に見つめ返されるということとも言えるであろう。

 

 

詩の本質は、翻弄されることにある。運命に弄ばれているものが、命に運ばれていく様を、ありのままに、世界に写し出す行為。

 

 

イマジネーションの世界と、現実との交通を円滑にすること。作品制作はイマジネーションによって運ばれ、果たされるものであるが、それが作者の現実における立ち振る舞いに何の変化ももたらさなかったとしたら、そんなことなら、作品など作らない方が良いのではないだろうか。

 

 

見ることは、見られること。何かにほんとうに触れたいのであれば、また、そのようにして生を押し進めて行きたいのであればその時には、自分が変わってしまうということを、なんの留保もなく認めていなければならない。

 

 

今よりもっと微細に、物や人を、観れるように、聴けるように、嗅げるようにしたい。畢竟すればそれは、より世界と戯れていたいという、あまりに些細な願望を私が持っていることを指すのだろう。その些細な願望を満たすことが出来るならば、どれだけの労苦も厭わないことを今ここで誓う。輪切りにされた世界に住むのは容易い、けれどもそこには他者もいない。

 

 

山頭火の句は、まさに魂の彷徨という言葉に相応しいもので、つまるところ、詩人などというのは、生き方を示す語でしかないのだということを思う。八木重吉の詩を読んでいても思うが、おそらく私が興味を惹かれているのは、一般には文学の領域で「詩」とされている形式に収まらないも関わらず、強く「詩」を感じさせてしまう「ことば」だ。とは言え、決してそうした文芸の形式を批判しているわけではなく、私は素直に芭蕉にも、三好達治にも「詩」を強く感じることはここに記しておく。

 

 

もしも誰かが仮に、芸術という一領域についての知見や見識を強固に持っていたとして、それがその人間の「生」になんの影響も及ぼしていなかったのなら、それはとても悲しいことだ。私は、それらが相似するものであると思っているし、そのように信じて生きていたいと強く思う。

 

 


準備(2016/5/19)

 

愛知県の犬山に、如庵という国宝の茶室があります。これは織田信長の弟の織田有楽斎が立てたと言われるものです。この茶室は圧巻でした。そこは、いわゆる「あわい」だったのだろうということが一瞥して理解されました。

 

生と死の「あわい」、現実と夢の「あわい」、日常と非日常の「あわい」。それまで着ていた鎧を脱ぎ、世界との新たな接点を呼び起こす場所。その「瞬間」に脱ぎ捨てられた無数の「屍」の痕が、その空間にはどっさりと堆積されていました。躙口から部屋の中へと足を踏み入れ、そうして再び躙口から外へと出るとき、そこに立っている「人物」は、もはやそれまでの【人物】ではなかったということなのでしょう。

 

そしてこの茶室を見てから、私は茶室という空間において、例えば千利休や有楽斎は何をしていたのだろうかということに非常に興味を抱くようになりました。その後、様々に思案した結果、おそらく彼らは何もしていなかったのだろうという結論に至りました。これは例えば千利休は怠惰であったとか、人をもてなす準備やふるまいをしなかったということではありません。利休は何もしないでいるために、日々相当なる準備をしていたのだと思います。準備をすることでしか、何もしないでいることは出来ないからです。また、秀吉が足しげく利休の茶室へと足を運んだのは、そんな利休を前にした時に、秀吉自身も「ただ在る」ことが出来た、「今」を見つめるということが出来たからなのだと思います。

 


翻弄(2016/4/28)

 

詩の本質というものは、「それでも生きていく」という決意性にあるのではないかということを思います。

 

【お鶴の死と俺/坂本遼】

 

『おとつつあんが死んでから

十二年たつた

鶴が十二になつたんやもん』

と云うて慰めらてをつたお鶴が

死んでしもうた

はじめて氷が張つた夜やつた

わかれの水をとりに背戸へ出て

桶に張つた薄い氷をざつくとわつて

水を汲んだ

 

お鶴はお母んとおらの心の中には

生きとるけんど

夜おそうまでおかんの肩をひねる

ちつちやい手は消えてしもうた

おら六十のおかんを養ふため

働きにいく

 

お鶴がながい間飼ふた牛は

おらの旅費に売つてしもうた

おかんとおらは索かれていく牛見て

涙出た

 

佛になつとるお鶴よ

許してくれよ

おら神戸へいて働くど

 


遊びと公共性(2016.2.3)

 

 

1、公共性と遊び

 

 「遊んでいる」時、その人は夢中にやっているので、自意識というのはおそらくありません。「夢中」というくらいなので、「夢」のような時間の中で、やっているでしょう。ハイデガーは「Spielraum;遊動空間」という言葉を残していますが、この「Spie」には、「隙間」「幅」といった、「遊び」のニュアンスがあって、場合によっては「Spielraum;遊びの余裕の幅」と訳されています。(ジャック・アンリオ『遊び』)

 

今、私が関心を抱いているのは、こうした(遊びの)「隙間(幅)」と、「公共性」の関連です。「公共性」というからには、何か「同じもの」を共有していること、ないしは、「同じもの」によって抱かれていることが大切だと思われます。しかし決して同じであるはずがない「個人」が、あまりに「同一」になってしまったら、それはそれで危ういことのような気がします(=全体主義)。そうした中で、仮に複数の人間が(遊びの)「隙間(幅)」を共有出来る空間にいられたなら、そこには興味深い「公共性」の在り方が立ち上がってくるのではないでしょうか。

 

斎藤純一氏は『公共性』の中で、示唆的な一節を記載しています。公共性とは、閉鎖性と同質性を求めない共同性、排除と同化に抗する連帯である。(斎藤純一『公共性』)。ここで、確認しておきたいのは、斎藤氏が、「公共性」と「共同体」を明確に区別していることです。まずはその違いを整理します。

 

① 共同体:閉じた領域をつくる⇔公共性:誰もがアクセスしうる空間である(=開かれている、閉域がない) 

② 共同体:宗教的・道徳的・文化的価値を共有⇔公共性:成員の抱く価値が異質。複数の価値や意見の‹間›に成立する

③ 共同体:情念(愛国心・同胞愛・愛社精神)が統合のメディア⇔公共性:差異を条件とする言説の空間

④ 共同体:一元的・排他的な帰属⇔公共性:同一性の空間ではない

 

一瞥して分かるのは、共同体が「同質性」を重視しているのに対し、公共性は、人と人との「間」に存在する「差異」がキーになっているということです。「違う(=差異)」ということが「紐帯」となることで、「共に在る」ことが出来る。これはとてもおもしろい現象です。

 

『全体主義の起源』や『人間の条件』などを残したことで知られるハンナ・アーレントは、「公共性」を ①現われの空間(the space of appearance) ②世界という2つの次元から捉えています。永続的に築かれ進行する「世界」に対し、「現われの空間」は「この空間を生み出している運動が続いている間だけしか存続しない」。                                                        (アーレント『人間の条件』)

 

この「現われの空間」においては、先にみたような、「共同体」的な同質性は前提とされません。そこでは「閉鎖性と同質性を求めない共同性(斎藤)」が存在し、複数の人間は互いに「見られ聞かれる」という「開かれた」状況におかれます。ここでは、互いに「他者に対する予期」を放棄します。つまりそれまで抱いていたその人に対するイメージや、想定を一旦はずすということです。そうすることで、「私が他者に対して現わになり、他者が私に対して現れて」きます。

 

この誰(who)の背反にあるのが、何(what)です。何(what)とは、例えば「会社員」「男性」「父親」といった「属性」「社会的地位」のことですが、我々の日常(社会生活)においては、互いを「何(what)」として扱うことがほとんどで、このように他者を「何(what)」として見ている限り、「現れの空間」の出現はないとアーレントは言います。

 

さてこうした、皆が誰(who)として存在している空間というのは、いうなれば一切の束縛がない「自由」な状態だと言えるでしょう。しかしこの「自由」というのは、決して当人の「意のまま」ということではありません。 「現われの空間」で暴露される「誰(who)」というのは、「人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方で、この「正体」を扱うことはできない(前掲書p292)」からです。

 

では「誰(who)」の暴露は、一体どこからやってくるのでしょうか。ジャック・アンリオは著書『遊び』の中で、「存在が遊びうるというのは、存在のなかで何かが遊ぶからなのだ」と言っていますが、「現れの空間」において起きている事象はこのことなのではないでしょうか。おそらくそこでは、何かが遊んでいるのです。その何かは、そこにいる一人一人の中に勝手に侵入していきます。そうして人々は「そこで遊ぶ何か」に「動かされ」るようにして、各々の誰(who)を暴露していきます。つまり、「同じ」何かに抱かれ遊ばされながら、しかし顕わにされる誰(who)はそれぞれに「異なる」。私はこうした点から見て、アーレントのいう「現われの空間」には、ハイデガーの「Spielraum;遊動空間(遊び(隙間・幅)」が存在しているのではないかと思うのです。

 

そうして、今見てきた全体主義とはまるで正反対の、「同じ」なのに「異なる」が成立する空間 =「異なる」から「同じ」が成立する空間、即ち「遊び」(幅/間)のある公共性/連帯の在り方に、どうやら私は強い関心を持つことが分かってきました。

 

 

2、アーレントの「世界」

  

さて、アーレントは「公共性」に関して、今見てきた「現われの空間」とは別に「世界」という概念を示していることは先に説明しました。先の「現われの空間」というのは、この「世界」を前提にして立ち上がってきます。「世界というのは、人々の運動と有機的生命の一般的条件となっている限定的空間にすぎない地球とか自然のことではない。むしろ世界は、人間の工作物や人間の手で作られた生産物と結びついており、同時に人工的な世界に居住している人々の間で進行している事柄とも結びついている。世界の中に一緒に住むというのは、本質的には、ちょうどテーブルがその周りに座る人たちの間に位置しているように、事物の世界(world of things)がそれを共有する人々の間にあることを意味する。つまり世界は、あらゆる中間体(in-between)と同様に、人びとを関係すると同時に分離する。(前掲書,p78)」

 

上記、引用部分でアーレントは、「テーブル」というモノを例に「世界」の説明を試みていますが、もう少し噛み砕いてみたいと思います。「テーブル」というのは、それだけで見れば単なる「モノ」ですが、例えば「このテーブルを囲んで、月に一回食事会をしよう」ということで、複数人が集まったとします。どうすれば面白い食事会になるだろうと、皆で様々議論した後、各人は「料理を作る」「椅子を作る」「食器を作る」「飲み物を作る」・・などそれぞれに異なる「はたらき」をすることになったとします。そうした場合、その「テーブル」はもはや単なる「モノ」ではなくて、「媒体medium」になっています。つまり「テーブル」に引き寄せられるようにして集まった人々の間には、それまでには決してなかった「関係性」が生まれるのです。そうした「関係性」は、「テーブル」があり、また互いが意見を出し、議論したからこそ育まれたものだと言えるでしょう。単に一緒にいるだけでは到底育まれませんでした。従って、アーレントにとっての「世界」とは、「手を加えられる事物;テーブル」が、人々の「間」にある状態を言うのだと考えられます。

 

しかし、こうして食事会を月1回のペーズで実施していると、おそらくなんらかの違和や不和が、人々の間に生じてきます。「もっとこうした方が良いのではないか?」「こういう食事会があることをこの間ニュースで見た」・・・。また、個々人を取り巻く環境や状況、精神状態などは日々刻々と変化します。そうした違和や不和、個々の内部の変化を包み隠さず曝し、それを踏まえた議論を定期的に行い、様々に調整していくことで、食事会の質は高まり、また個々人が担う「はたらき(活動)」も変化(深化)していきます。

 

つまり、「世界」とは、「全体」としての連続性(=公共性)が保持されつつ、また「個体」の終わりと始まり(=変容)をも保持する蝶番のようなイメージを持つものでしょう。もう少し言えば、古代ギリシアの「ポリス」は私的領域(=「家」)と公的領域(=「家」の外部)により構成されますが、アーレントにおける「世界」は、後者のポリスにおける「公的領域」を原型にしています。そこでは「力」「権力」ではなく、互いの「言葉」を媒介にして相互作用し、様々な事柄を審議、決定していきます。ポリスと聞くと、都市=国家を想起しますが、それは「共に活動し、共に語ることから生まれる人々の組織」であり、「ポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るというこの目的のために共生する人々の間に生まれ」ます。(前掲書p320)。つまり、アーレントにとっての「世界」とは、異なる意見を交わし、構成・調整・具現・更新される、「日常の共有空間」のことだと言えます。

 

それは例えば、日本でいうと「棚田」とか「路地」とか、その他様々なものが該当されますが、近代においてはそうした「世界」が、どんどんと消失していることに気付かされます。その行き着く先が、ヒトラー台頭に代表される「全体主義」の興隆です。では、なぜ「世界」はなくなってきているのでしょうか。   

 

 

3、ヒトと世界内存在

 

アーレントは大衆社会における「利害」の喪失という観点から、「世界」への「関心」が減少されていくことを指摘し、その説明を試みています。近代において、個々人は、自分にとって一体何が「良い」のか「悪い」のか、また自分は「どうしたい」のか「どうしたくないのか」(=「利害」)がわからなくなってきています。つまり、彼らは、自らを喪失している状態にあります。だから、自分の住んでいるところ(=「世界」)がどうなろうと、自分には関係がなくなってしまうのです。(=「世界」への無関心)そうして人々は「世界」の中での自らの位置を見出せなくなっていっています、「リアリティー」を失った状態です。そうした喪失状態にある人のことを、ハイデガーは「ヒト des Man」と名づけました。(⇔固有性を持った「人間 der Mensch」)「ヒトdes Man」は、いつも平均的であることを望みます。娯楽、思考、嗜好性など、あらゆる事柄を、「人のするようにwie man~」消化します。

 

  言うまでもなく、そうした「ヒトdes Man」は、「現存在(=今の私)」にとって、「本来的自己」ではありません。ハイデガーは、そうした堕落的な「ヒトdes Man」から脱し、「本来的自己」=「世界内存在」を見出す必要性を訴えました。「世界内存在」とは、「世界」の「内」にいる「存在」だということです。そうした有り方においては、「自己」の利害は、直接的に、「世界」の利害と結びつきます。「世界内存在」は、棚田(=世界)が放棄されていたら(自分が)悲しいから、耕すのです。「自己」と「世界」の境界が極めてあいまいな在り方だと言えるでしょう。「自己」のためになること(=棚田を耕す)をすれば、それがそのまま「世界」のため(=風景の維持)になります。それが「世界内存在」です。

 

  そうしたハイデガーの「ヒトdes Man」に対する批判を引き継いで、アーレントは人々が「異なる意見を闘わせること=対話」から「世界」を再建しようと試みたのです。(この再建へのアプローチはハイデガーと異なります)。「他者」との対話によって「世界」を再建させようとするアーレントは、独立的な、「本来の自己」などというものの存在を信じていません。

 

人々は活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明かにし、こうして人間世界にその姿を現す。(中略)その人が「何者(who)」であろうかというこの暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべて暗示されている。(中略)この言論と活動の暴露的性質は、人々が他人の犠牲になったり、他人に敵意をもったりする場合ではなく、他人とともにある場合、つまり純粋に人間的共同性におかれている場合、前面に出てくる。(前掲書p291-292)

 

あくまでも自己が「何者(who)」であるかは、「他者」との対話、活動の中で暴露され、「現われ」ていくのです。しかし、「世界」において、「現われる」には、「ルール」が必要であるとアーレントは考えました。そのルールとは「物語story」への参入です。

 

言論を通しての新しい「始まり」の設定は、常に既存の網の目の中でなされる。この網の目の中で、言論や活動の直接的な帰結が感じられるのである。言論と活動は共働して、新しいプロセスを開始するが、それは結果として新参者のユニークな生活の物語(life story)として出現してくる。新参者の生活の物語は、ユニークな仕方で、彼と接触を持つ全ての人の生活の物語にユニークな仕方で影響を与えるようになるのである。(中略)言論と活動とを通して自らを人間的な世界に挿入することによって自らの人生を始めるわけだが、誰も自分の人生の物語の著書=創造主(author)ではない。別の言い方をすれば、活動と言論における物語は、行為主体を暴露するが、行為主体は著者=創造主でも生産者でもない。誰かがそれを始め、二重の意味において、つまり活動=能動者かつ受苦=受動者(sufferer)として、その「主体」となるが、誰もその著者=創造者ではないのだ。(前掲書)

                                                       

ここで言う「網の目」というのは、端的に言えば、「歴史history」のことだと考えられます。俗に言う「歴史」は、「史実を時系列に並べたもの」になるわけですが、アーレントは「歴史history」を、「大いなる物語great story」と見做し、そこに無数の活動者/言論者(=who誰)の主観的な「物語」が含まれていると考えました。従ってここでの「歴史history」とは、無数の活動者/言論者によって編まれている「織物」のようなイメージだと言えるでしょう。

 

その中に参入する人間は、共同体の「物語=歴史」を紡ぐ「主体」であると同時に、「物語=歴史」によって作られる「客体」になります。そうして、ポリスが続く限り永遠に、その人は「歴史history」の中で生きつづけます。これをアーレントは「自由」だと名づけました。アーレントの言う「自由」は、一度そこに足を踏み入れれば、四六時中「霧の中」を歩んでいるような感覚になるものでしょうが、アーレントは「霧の中」に入っていくこと、即ち自分でもどうなるか分からない「物語=歴史」へと踏み出していく「勇気」が必要であると言うのです。これは近代人が求めてやまない「自由観」=「無制限/無摩擦/無衝突」からは、程遠い思想であることは言うまでもありません。こうした「自由」、即ち主体でありながら、「著者=創造主」にはなれない「物語=歴史」は一体どのような時に書き換えられ、流れていくのでしょうか。 

 

 

4、語りと受苦

 

 「物語=歴史」が書き換えられる時、これは言うまでもなく、「現われの空間」においてだと私は思います。アーレントはそれを生じさせる一形態として、「個人的経験を物語として語る」ことを挙げています。我々は日常生活において小さいものから大きいものまで、「苦痛」を嫌という程体感します。それはあまりに理不尽なものです。後になって「それを避けるにはどうしたら良かっただろうか」と嘆けど、実際には「どうやっても避けられなかった」場合がほとんどで、本人が意図していないにも関わらずふりかかってきます。子どもがいじめにあった、親族が乗っていた飛行機が墜落した、自宅が放火され全焼した、突然耳が聴こえなくなった---。その「苦痛」に付随する、堪えがたい情念を昇華するには、時間が必要であることは言うまでもありませんが、「なぜ私ばかり・・」と嘆いているばかりでは、そこからは抜け出せません。そうした時に必要になるのが「語り」です。それは「再受苦」を喚起します。

 

過去を再受苦することを通して、個人的活動のネットワークが一つの出来事、意味のある全体へと変換される。(アーレント『暗い時代の人々』)

 

 一人では抱えきれなかった「受苦」は、他者に向けて語られた時、共同体の「物語=歴史」の中に組み込まれ、耐えうるものとなります。その瞬間に「物語/歴史」が、どこかへ向けて「流れて」いくのではないでしょうか、その「歴史=物語」は、「私」の「歴史=物語」であり、「共同体」の「歴史=物語」でもあります。つまりその瞬間には「世界」が流れるのです。「大いなる物語」が流れると言っても良いでしょう。

 

こうしてみると、「物語=歴史」を編んでいるのは、元を辿れば個人に「受苦」を促した日常の「出来事」、また時間の堆積です。先にも見たように、それは「避けられない」「意図しない」ものだった。こうしたところから、「物語=歴史」を書き進めている著者(author)は、「運命」だと書かざるをえないと私は考えます。そうして我々は「運命」に翻弄されながら、「語る」ことで、この「生の舞台」においての「配役cast」を授かるのです。その「配役cast」は言うまでもなく、定期的に更新され変化していくでしょう。

  

石田雅樹氏の著書『公共性への冒険』においては、祝祭を「他者との共同性の成立あるいは解体の契機」とされていますが、まさにこの現われの空間は、(語り以前)の主体と共同体との関わり方が解体し、新たな関わり方が立ち上がってくる「祝祭」的契機だと言って良いと思います。さらに言えば、「ハイデガーは、時間と歴史の端緒にしてそれを到来させる「詩作ー思索」の場を、「祝祭」として指示し、そこは「現ー存在が歴史的なものとしてあるような、そのような所」であり、その「祝祭はそれ自体、歴史の根底および本質なのである」と石田氏は記述している点も非常に興味深い所です。(前掲書) 

 

こうした祝祭の場=「現われの空間」は、おそらく2人以上の人間がいれば出現すると思いますが、例えば10人が共にいて「語り」をする場合を考えてみましょう。その際に起こるのは、各々の「歴史=物語」が共同体の「歴史=物語」によって動かされながら、なお共同体の「歴史=物語」が各々の「歴史=物語」によって動かされるということだと思います。当然のことながら、各々の「歴史=物語」はそれぞれに異なります。しかし、それと同時に流れる共同体の「歴史=物語」は皆が共有している。つまりそこには皆が「同じ」ものを共有しながら「異なる」が成立する空間=皆が「異なる」にも関わらず「同じ」であるという空間が成立するのです。

 

ここでようやく、私がなぜこうして筆を進めてきたのか、その先に確認したかったことが把握できました。おそらく私は、個々が「私の歴史=物語」を各々に紡ぎながら、それが同時に「共同体の歴史=物語」を共有し推し進めている、そうした「遊び」(幅/間)のある公共性/連帯の在り方に、人類のひとつの「理想」を見ているようです。「運命=著者author」からの「配役cast」を各々が十全に全うし、皆でひとつの「劇(drama)」を遂行する、そのような連帯に私は一つの「理想」を見ています。そうして、生の「舞台」で十全に命を全うした個人が、「歴史=物語」に痕跡を残して「舞台」から立ち去って行く。そこには一つの「美しさ」がないでしょうか。

  

しかし、アーレントが「公共性」のひとつの原型として捉えた古代ギリシアの「ポリス」においては、その「公的領域」は、ごく少数の家長によって構成されているに過ぎなかったこともまた事実です。(cf.『人間の条件』)従って、ここまで見て来たことは、現実を顧慮しない「理想主義」であり、政治哲学的断片に過ぎないのかもしれません。ただ、私は、これからの「人間」の在り方、共同性を考えるに際し、アーレントの思想には多くのものが含まれているような気がしてならないのです。

  

●引用・参考文献  

 

アーレント『人間の条件』   

ジャック・アンリオ『遊び』 

斎藤純一『公共性』 

板倉杏介 「音楽するコミュニティと現われの空間」『アートミーツケア vol1 2008 臨床するアート』 

仲正昌樹「公共性」と「共通感覚」:ハンナ・アーレントの「政治=演劇」モデルをめぐって」 

石田雅樹/『公共性への冒険』


常啼菩薩(2016.2.2)

 

不安定を創り出す(バランスを崩す)能力は動きのエネルギーを創り出すエネルギーである(野口三千三『原初生命体としての人間』p18)

 

 

物事をいい加減にしていれば涙はありません。苦しくないからです。物事を真面目に考えてまともに向うと涙があります。苦しいからです。(中略)樹が芽をふくとき、樹の皮に現れるものはまず疵(きず)です。苦悩です。次に樹脂ーつまり涙です。そして新しい生なる五月の新緑が芽生えます。(中略)涙の価値を払って、人生の意義を求める道理を人格化して、仏教で説いたものに、常啼菩薩(常啼菩薩は七日七夜泣き続け、遂に道を得ました)というのがあります。私たちは真面目になればなるほど、一面、常啼菩薩です。(岡本かの子「仏教人生読本」)

 

 

汝は仕事をする権利を持っているが、それは仕事のために仕事をする権利に限られる。仕事の結果に対する権利は持っていない。仕事の結果を求める気持を仕事の動機にしてはならぬ。怠惰に陥ることも禁じられねばならぬ。一挙一動、すべて、至尊の上に思いを致して行うべし。結果に対する執着を棄てよ。成功においても失敗においても心の平静を保て。ヨガの意味するところはこの心の平静なのである。結果を顧慮しながら為された仕事は、さような顧慮なく、自己放下の静けさのうちに為された仕事にくらべはるかに劣る。婆羅門の知識に救いを求めよ。結果を求めて利己的に仕事する者はみじめである。  (『バカバット・ギーター』)

 

 

ズイガン(瑞巌)は毎日自分に向って呼びかけた「ズイガンよ」。すると彼は自分に答える「はい」。続いて彼は付け加える「覚めておれよ」。再び彼は答える「分かりました」。「その後では」と、彼は更に続ける「他人にだまされるな」。「分かりました、分かりました」と、彼は答える。(『無門関』) 

 


時(2016/1/2)

 

私は画家の村上華岳が好きだ。

 

特に、樹木や山などをモチーフにした、彩度が抑えられた風景画などを画集で眺めていると、人間が生きることのおぞましさがひしひしと感じられる。それは我々が普段は蓋をして決して開けないようにしているもので、出来れば避けて通りたいと思ってしまうものだ。華岳の絵画の偉大さは、その「おぞましさ」と表裏をなすようにして「生の恍惚」が示されている点にある。

 

そうして私は、華岳の絵を見るたび、一見すれば、矛盾するふたつの性質を持つものが、決然とこの世界の中で「ひとつ」として「直立」している、そこに生命の本質があることを直観するのである。さて、華岳に『畫論』という書籍があって、これは芸術論集というよりはもはや宗教書とよんだ方が正しい。その中に、このような記述がある。

 

哲学上の言葉に「止揚」といふことがある。止は止める、揚は揚げるで、全然相反する意味の二字を連接せしめた言葉である。

この両者をうまく調和せしめることが絵の根本義であると思ふ。換言すれば動に対して静がある、この二者は常に相反する意味を持つに拘らず、これを調和せしむることが結局藝術の根幹をなすものと思ふ。静動一如といふのは即ちこれである。(『畫論』pp293-294)

 

「止まっているのに、動いている」。芸術作品の制作や、鑑賞に限らず、生活の中でふとそのように感じられる「時」との遭遇は、どんな人にも一度くらいは経験があるものではないだろうか。そうした「時」は、「現場」にいる際には本人すら気づかずに、少し時間が経ってから、「一体あれは何だったんだろう」と、少し他人事のように反芻する類のものである気がする。

 

丁度1週間程前、友人達と久々に再開し、鍋を囲みながら、とりとめのない話をしているときにもそんなことがあった。「現場」にいて、夢中になって話をしている時には全く気付かなかったのだけれど、後から振り返ってみると、その「現場」で発せられていた自分の言葉が、全く自分のものではなくて、誰かに喋らされていたように思えてならないのだ。しかし自分ではない誰かが私に喋らせていてもなお、それがあまりに十全と「自分」であったような気がするのである。「自分は止まっていたのに、しかし間違いなく動いていた。」

 

あの不可思議な「時」が、どこでどうやって繰り広げられていたのか、また同じ「時」を引き起こすにはどうすれば良いかと問うてみても、全く答えが出ないでいる。 そして華岳ほどの人物であれ、絵を描き切った後には、そうした「不可思議」な気持ちで、自分の眼の前にある絵を、少し他人事のように眺めていたのかもしれないなと自分を説き伏せて、あの「時」が何であったのか、わからなくてもまぁ仕方がないのかもしれないなと、結論を先走る自分自身を少しだけなだめているのである。


自発性(2015/12/1)

 

自発性というと、「自」から「発」するとあるから、「自」の内部に、マグマのような、エネルギーが充満する場所が存在していて、そこから奔流してくるものを、過不足なく露わにしていくことのように、なんとなく思えるし、これまで私はおそらくそのように信じてきた。しかし、拙著『詩と共生』を書き終えてからの数か月間で、気づかぬうちに、いろいろな変化がおきていて、もしかしたらこれまで私は自発性というものに関して大きな捉え間違いをしてきたのではないかと思うようになった。

 

幼児期に特有の「遊戯体験」は、藝術の根源を遡って行くと、そこに行かざるを得ないという説があることからも分かる通り、なんの囚われもなく、理性もない、純に「自発的」な行為だとみて良いように思う。ある幼児が、砂場にいて、石と砂で、ケーキを造っている。これはひとつの「遊戯体験」で、別に誰に頼まれたわけでもないのだから全く「自発」的なものだ。では、この、石と砂でケーキを造る行為というのは、本当に「幼児」の「内部」からやってきているだろうか。詳しく見てみると、そうとも言えないような気がしてくる。

 

まず、そもそも、幼児の周りに石や砂がなかったら、幼児はケーキを造れない。造れない、というか、おそらく造る気すら起きない。また、石や、砂があって、ここから何かを作ろうとしたときに、なぜケーキのイメージが出て来たかと問えば、おそらくその幼児はそれまでにケーキを食べたり、見たことがあったからだ。そう考えていくと、幼児がここでケーキを造っているという行為は、独立的に見えて、実はかなり「環境依存的」「脈絡依存」的なものであるように思えてくる。つまり、砂場でケーキを造るという、一見「自発的」な行為は、実は幼児の内部から、単体で出て来たものではないらしい。

 

しかし、幼児は「誰に頼まれたわけでもなしに」、ケーキを造っているのだから、どこかからは、その欲求が湧いてきたことは間違いない。では一体、どこからそんなものが湧いて来たのだろうか。おそらくは、この場所で、ここにあるものたちが、「今」を楽しむための、ほんの少しの「気遣い」からではないだろうか。

 

そうして自発性というのも、おそらくはそんな大げさなものではなくて、実はその程度のものなのではないかという気が最近はしている。今まで肩に背負っていたものがすっと落ちていって、少しくらいは軽々しく生きるようになっていくのかなと、そんなことを今は思うのだ。

 


生活(2015/11/17)

   

詩や音楽、書籍などを、切迫的に求めていない、今の私の生活態度というのは、裏返せば、安息な日々に浸りきっていることを意味しているのであろう。 張り合いのない、弛んだ生活を繰り返すだけなのであれば、あえて裂け目を入れられることや、また裂けてしまった所をどうにかして縫い合わせようなどという気など起きるはずもない。私は以前、宮沢賢治やタゴールに関し、このように述べていたようである。

 

なぜひとつの領域(学問的・美学的)において、かくほどに傑出し、突き詰めた人間が、それとは全く志向を異にする領域(利他的・人道的・社会的)において、スケールの大きな仕事を果たしたのであろうかと、疑問に感じてしまう。本当に彼らは自分と同じ人間で、自分と平等に与えられた時間の上を生きているのかとすら思ってしまう。

 

前掲の神谷氏と西田幾多郎に関する文章を書き進めたことで、私には上記の引用部分に関して、ひとつのことが判然とした。おそらく、神谷氏や、宮沢、タゴールなどは、学問的・美学的なものによる下支えなしには、全く以て耐えきることができないような、足場が脆弱な「高さ」のある「生活」をしていたのではないだろうか。

 

従って、近代的な視点でもって、「ひとつの領域」などという観点を持ち込んでいるのがそもそもの間違いで、彼らの「生活」の継続と、学問的なもの、美学的なものの追究というのは、相互に増幅し、また補完し合う関係性を有していたのだろう。

 

そして、今のわたしには、そんな「生活」を送った人間がいたなどということが、ずっと遠くにあるように思われてならないのだ。

 


西田幾多郎の書から(2015/11/17)

 

ここ最近、自らに了解しえたことは、芸術それ自体を目的とすることが、私には到底出来そうにないということだ。至上主義的な芸術というものは、歴史上にはいくつもあるだろうし、「美の創造」と言う大義の下に、果たされた偉大な仕事はそれこそ枚挙に暇がない。

 

しかしそれでもなお、私はそうした創造行為よりも、自らの「生」それ自体を、優先させる瑣末な人間であり、「生命」という大きな川に放り投げられた人間が、その急流に食らいついていく、その過程で、結果として「生まざるをえなかったもの」、そうしたものだけを、私はこの手で掬い、生きていたいと強く思う。

 

思えば、哲学者の西田幾多郎の書というものは、彼にとって何だったのだろう。私は金沢の西田幾多郎記念哲学館にて、初めて彼の作品と対峙したが、それは到底言葉にならない体験だった。彼の書に見られる「線」は、宇宙それ自体の展開力や、動的なエネルギーそのものとしか呼べない圧倒的ななにものかであって、それらは気づかぬうちに私の身体へと侵入し、頭から足先までの体内を隈なく動き回った後に、私の身体の構成を大きく組み替えていった。

 

「書は人なり」というように、人格を強く感じさせる書と言うものは確かに存在する。しかし西田の書に関して言えば、彼の書には全くもって西田の人格など示されていなかった。その線に映っていたのは、肉体や血といった、人間として本来有する「生臭さ」というものを一切排除したところに浮上する、「虚無」であったように思う。

 

おそらく彼は、自らの意図とは関係なく外界で不可避に引き起こされる幾多の苦難に際し、その都度、自分の「在所」を否定し、更新していくことでしか、到底生き伸びることが出来なかったのだろう。『善の研究』に代表される西田哲学の樹立自体が、そうした「実存的」背景なしにはなかったと言われるが、そうした悲哀の体積、自己否定の連続の中で、西田はその都度、「ことば」を紡ぎ、安住の「地」を発見していった、その過程で、西田には書道に向き合う必要性が生じた時期があり、「芸術」としての書が生まれ落ちたのだと考えられる。  

 

そして思い返せば、芸術というのは、本来そういうものではなかったのだろうか。もしも私が、自分自身の実存的な問題に取り組まない、弛んだゴムのような人生を歩むのならば、私は書道をやめる。実存に関わりのない書道との対峙は惰性や因習に過ぎず、その空虚を補うように強迫的になされる紙面構成の追究や、造形への耽溺に、私は一度として心を震わせたことなどない。

 

思えば、この3、4年間というものは、私が書道を含めた「アート」と、どのような関わりを持ち、いかにそれを捉え、向き合っていくのか、そんなことを模索していたように思う。そうした中で、やはり私は西田にとっての哲学や書が、そうであったように、あくまでも「生きる技法」として、「生き延びる技法」として、書道と向き合う生涯を築いていきたいと思うのである。

 

そしてそれは神谷美恵子氏がそうであったように、別に他者のためにするわけでもなければ、誰かに影響を及ぼすためにするわけでもない。徹底して、利己的なものだ。しかしそうして自分が「生き延びる」ためだけにしていたアートが、結果的に私自身の在り方を組み替えて、世界や他者との関わり方を変化させてくれるのではないだろうかと、そんな安易な願望を今は抱いているのだ。

 


神谷美恵子日記から(2015/10/13)

 

ハンセン病療養所長島愛生園で献身した、精神科医の神谷美恵子氏の著書『神谷美恵子日記(角川文庫)』に興味を惹かれる一節があったので引いてみたい。

 

 

(以下引用)

 

altruistisch(利他的)な衝動とともに純粋なwissenschaftliche od. aesthetische Triede(学問的又は美学的衝動)が私に存することを彼女等は知らぬ。また一般にクリスチャンはこうしたものの存在を許さないしみとめない。ああしかし、私はこれらなしでは窒息する。全然目的なしに、ただ、知ることそのもののよろこび故に知を求め、美しさそのもののたのしさ故に美を追求する。そうした世界へ時折逃げ去って人の世をも、人をも一切忘れて、放棄して、生命の洗濯をすることが許されなかったら

到底息が続きそうにない。

 

私がもし何か研究したり、創作したりしたとしても、それは決して「人類のために」などではない。そうであって欲しくはない。学問や芸術の世界に於ける活動は、極端に言えば、人生へ及ぼす影響など考慮していないでよいのだ。少なくとも私は自分が書くものが人にどんな力をおよぼすか知らないし考えたくない。(それは批評家・評論家が考えてくれる。そうした意味での取捨選択は彼らに任せればよい。)

人のためになろうと思って書かれた作品に、文学的価値の高いものなど何時あったか。後世の人は、ある業績に、ある作品に、人類学的な動機や意義を付すかも知れない。それはどうでもよいことだ。しかし、創る者の心は知る人ぞ知る。真と善と美と、再考のところでは融合すべきであろう、がゆめいいかげんなところで結び合わせてはならぬ。それは各々の貴さを低めることになる。

純粋に、純粋に、それぞれを追い求められねばならぬ。

                                                                   (『神谷美恵子日記』p.64)

                                                              

 

生来的な芸術家としてこの世に生を受け、その労苦を担うものが立ちうる極地がどこであろうかと問えば、それは「人道(humanity)」というものに収束されるのではないかと私は常々思っており、その体現者として、比較的時代の近いところでは、宮沢賢治やタゴールなどが思い浮かぶ。宮沢やタゴールが残した膨大な作品群と、他方で彼らが生前に為した「利他的・人道的・社会的」な業績の双方を前にすると、近代に毒された私などは、なぜひとつの領域(学問的・美学的)において、かくほどに傑出し、突き詰めた人間が、それとは全く志向を異にする領域(利他的・人道的・社会的)において、スケールの大きな仕事を果たしたのであろうかと、疑問に感じてしまう。本当に彼らは自分と同じ人間で、自分と平等に与えられた時間の上を生きているのかとすら思ってしまう。そして、それは神谷氏の生涯を一望するときにも同じように感じるし、1800年台以前の偉大な「書」を残した人間の生涯を見ていてもそう思う。

 

ここで今ひとつだけ、私に何か記すことが許されるのならば、私は、altruistisch(利他的な衝動)と、純粋なwissenschaftliche od. aesthetische Triede(学問的又は美学的衝動)、それらの往来、交通があまりに円滑ではないし、もしかすれば、双方の衝動があるということすら本当には知らないのかもしれない。あまりに私は卑小だ。

 


流れてくるものに(2015/10/12)

 

この3ヶ月ほど、言葉が書けなかった。

 

おそらく私の場合には、身体と言葉の関係があまりに密で、言葉が出てこない時には、身体も動かない。そういう時には、ただ何もせず、何も考えず、時をやり過ごすほかに、出来ることがない。

 

外界への関心がない状態が継続され、自らがどこにも存在していないような感覚に襲われる。これは翻せば、内界が滞っているということにもなるのだろうが、開閉のない円環運動など、果たしてあっただろうか。呼吸が困難な状態においては少なからずの焦燥を覚えるが、因習を用いた所で、そこから広がる景色とは果たしてどんなものだっただろう。

 

ここ数日で、ようやく状態が上向いてきて、知らぬ間に「生の更新」がなされたことを強く実感している。

 

また言葉も出てくるだろう。